藤谷純子
〈念仏生活を妙好人に学ぶ〉    2018.11.28

 
   恵信尼様   (1182年・寿永元年~?1268年・文永五年)
 
          
              別府市・永福寺所蔵
                           
  親鸞聖人の奥様である恵信尼様を妙好人に選んでみました。大正十年(一九二一年)十二月、西本願寺書庫を調査していた鷲尾教導氏が、蔵の隅から一束の古文書を見つけ、それが恵信尼直筆のお手紙であったことは、大きな驚きであったそうです。というのは、親鸞聖人は、ご自分の私生活のことはほとんど書き記していないので、とうとう実在した人物ではないのでないかとさえ思われていたのだが、このお手紙が、聖人の実在を証明し、また聖人の信の歩みを明らかにしてくださるものであったからです。恵信尼様は聖人の妻として大きなお役目を果たされたと言えます。『恵信尼消息』と言われるお手紙は、建長八年、恵信尼七十五歳からわずかに十通だけであるが、念仏に結ばれて生き通した夫婦の原点がくっきりとうかがえる証文と言える。そしてこれらはすべて親鸞聖人の傍でお世話をした末娘の覚信尼に宛てたお手紙である。
 
  * 玉日姫と恵信尼様
 
   真宗門徒の女人講を、親鸞聖人の奥様の名にちなんで玉日講とか恵信講と言っていました。 玉日姫は、関白九条兼実の娘と思われているようですが、記録としてはないので伝説なのでしょう。そして親鸞聖人の奥様を玉日姫としたのは、親鸞聖人が六角堂に籠っている時に受けた救世観音の夢告の言葉に「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」とある「玉女」から当てられたのだと思います。だから恵信尼が奥様の名ということです。親鸞聖人には何人の奥様がおられたのか、京都・越後・関東と転居されたのでいろいろに空想されるわけですが、遺された資料からは恵信尼様お一人だということが内容的にも意味のあるところだと思います。
 
  * 恵信尼様はどんな女性だったのか
 
恵信尼様は、『日野一流系図』(蓮如上人の十男、実悟の編纂)に「兵部大輔・三善為教女」と記されていて、越後介に任ぜられたりして新潟に所領もあるところから三善為教の娘という説が有力なようです。そしてお手紙の文字や内容からも、京都で貴族の人々の中で暮らしていたと見られています。そして当時、法然上人の吉水教団には、身分をこえて多くの人々が教えを聞きに集っていたといわれてますから、もしかしたら恵信尼様のほうが親鸞聖人より早く、法然上人について聴聞してたのでないでしょうか。親鸞聖人は山を下りる決意を胸に秘めて、法然上人と命がけの問答をなさったでしょう。その親鸞聖人のお姿に、恵信尼さまは強烈な印象を受けられたことでしょう。恵信尼様が聖人の往生後に、娘の覚信尼に宛てたお手紙に、当時の様子が鮮明に書き記されています。
   
      山を出でて、六角堂に百日こもらせ給いて、後世を祈らせ給いけるに、九十五日のあか月、聖徳太子の文をむすびて、示現にあずからせ給いて候いければ、やがてそのあか月、出でさせ給いて、後世の助からんずる縁にあいまいらせんと、たずねまいらせて、法然上人にあいまいらせて、又、六角堂に百日こもらせ給いて候いけるように、又、百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にも、参りてありしに、ただ、後世の事は、善き人にも悪しきにも、同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に仰せられ候いしをうけ給わりさだめて候いしかば、上人のわたらせ給わんところには、人はいかにも申せ、たとい悪道にわたらせ給うべしと申すとも、世々生々にも迷いければこそありけめ、とまで思いまいらする身なればと、ようように人の申し候いし時もおほせ候いしなり。                                                                     
このように親鸞聖人の一大事を共有できる人であればこそ、越後への流罪も、また関東への苦難の道も同じ志をもって共に歩まれたのでしょう。そして晩年は、末子の覚信尼に聖人を託して、雪深い越後にて子(小黒の女房、栗沢信蓮房、益方大夫入道、高野禅尼)や孫たち(小黒女房の子二人、益方の子)、そして下人たち(七~八人)と悲喜を共にして生きたのでした。飢饉や凶作があって、子供たちを飢え死にさせまいと「母めきたるようにてこそ候え」と頑張っていました。。
 
    * 倶會一處の世界・浄土を心に持って、自立して生きた女性、恵信尼様
 
  恵信尼の生きた時代は、女系社会であったために、結婚をしても夫は妻の家に通うという生活でした。武士の台頭によって力による支配が始まると、女性は従属する位置になっていきました。恵信尼さまは、平安時代末期という時代の大きな変わり目に、仏教界では破戒とされる僧との結婚を受諾し、在家生活をしつつ念仏成仏という新しい仏道を歩むことに踏み切られたのでした。聖人と共に、同朋の人々と共に、弾圧の中、度重なる大飢饉や困難の中を生きられたのでした。そして晩年の三十年間あまりの別居生活を貫かせたものは、念仏の教えによる阿弥陀仏の浄土での倶會一處への信念であったでしょう。親鸞聖人と、そして子や孫、さらに一切の衆生との倶會一處の浄土の大慈悲の中に生きてゆかれた恵信尼様に、お会いさせていただきました。
 闇深い世を超えて、明るい浄土への往生を願われたお手紙を紹介します。
      ・・・・ あわれ、この世にて、今一度見まいらせ、又、見えまいらする事候うべき。わが身は極楽へただ今に参り候わんずれ。なに事も暗からずみそなわしまいらすべく候えば、かまえて御念仏申させ給いて、極楽へ参り合わせ給うべし。なおなお、極楽へ参り合いまいらせ候わんずれば、なにごとも暗からずこそ候わんずれ。
  雪深い越後の地にて幼児達の命を守って八十七年の一生を、お念仏申しつつ生き抜かれた恵信尼様に、渡辺愛子先生が贈られた歌を記して終わります。
  ふりつのる 越後の 雪の はぐくめる 花こぶしこそ 愛しかりけれ