藤谷知道

 比叡山延暦寺
  ― 鎌倉新仏教揺籃の地 ―

「延暦寺とは何か」と問うことは、「平安時代までの仏教とは何か」と問うことでもあります。国家に仕える仏教から、個人の救いの仏教へ。呪術仏教から、自覚仏教へ。鎌倉期に入り、日本仏教は新しい段階へ脱皮していったのです。

            
 「延暦寺」とは比叡山の山上から東麓にかけた境内に点在する東(とう)塔(とう)、西(さい)塔(とう)、横(よ)川(かわ)の、三塔十六谷の堂塔の総称です。延暦七年(七八八年)に最澄が一乗止観院という草庵を建てたのに始まります。
 聖人が学んだ延暦寺については、聖人ご自身が「聖道の諸教」として否定したこともあり、否定的に捉えられがちです。その理由をいくつか挙げると、

・仏法が国家(朝廷)に奉仕するものとして位置づけられた。
・個人の救いについても、自覚的な目覚めでなく、祈祷による呪術的な救済であった。
・両者とも、結局「人間のエゴ」を仏によって護ってもらおうとするものであった。
・叡山をはじめ南都北嶺の大寺院における僧の身分が門閥で決まるようになった。
・また武力さえも正当化して世俗権力に負けぬほどの僧兵をもつことになった。
・そして大乗の教えは現実から遠く離れたところで観念的に玩ばされた。

 このような否定的な面を指摘することはたやすいことかもしれません。しかし、何もかもが無駄だったというわけではありません。もし全く無駄な存在であったならば、聖人をはじめ鎌倉の祖師たちが次々と延暦寺から生まれ出るはずがありません。それならば延暦寺にどんな意味があったというのでしょうか。
・延暦寺において「天(てん)台(だい)本(ほん)覚(がく)思想」と言われる仏教思想が生み出されていました。「煩(ぼん)悩(のう)即(そく)菩(ぼ)提(だい)」「生   死即涅槃」という考え方は鎌倉仏教の祖師方に共通しています。この天台本覚思想が仏教を山にと   どまらせずに現実の中へと向かわせるエネルギーになったのではないでしょうか。
・(浄土を開く逆縁)比叡をはじめ南都の高僧も多くが妻子を持っていました。仏教が日本に伝来し   て以来、建前としての戒と人間の実存との乖(かい)離(り)が、放っておけないほどになっていたのです。仏教   伝来以来の数百年の歴史は、人間の罪業の深さを承認するために必要な時間であったと思います。 そうした負(悲)の歴史の沸点が、平安末から鎌倉初期におとずれたのだと思います。日本仏教が 抱えてきた課題を、本覚思想を学んだ若き青年僧が本気で解決しようとする「時」が来たのです。
・一言でいえば、内から自己否定するものが次々と生まれてくる時代は、決して堕落していた時代で はなく、最もエネルギッシュな時代であった、とも言えるのではないでしょうか。

磯長の夢告
  ― 聖徳太子からの宿題 ―

 19歳になった親鸞聖人は法隆寺で因(いん)明(みょう)を学んだ後、聖徳太子の磯(し)長(なが)の廟を訪問し三日間の参籠をしました。その最後の夜、太子より、聖人の一生を左右する大切な夢告を受けられたのです。

 『親鸞聖人正明伝』によれば、親鸞聖人は19歳の時、法隆寺で70日間「因明(いんみよう)」を学んだあと、河内国磯長の聖徳太子の霊廟へ参詣し、そこで次のような夢告を受けたと伝えられています。

  我三尊化塵沙界 (我が三尊は塵(じん)沙(じゃ)界を化す)
  日域大乗相応地 (日域は大乗相応の地なり)
  諦聴諦聴我教令 (諦(あきらか)に聴け諦に聴け我が教令を)

  汝命根応十余歳 (汝が命(みょう)根(こん)は応(まさ)に十余歳なるべし)
  命終速入清浄土 (命終わりて速(すみや)に清浄土に入らん)
  善信善信真菩薩 (善(よ)く信ぜよ善く信ぜよ真の菩薩を)

 この夢告について少し考えてみたいと思います。
 「我三尊」とは、弥陀、観音、勢至であります。磯長の廟は「三(さん)骨(こつ)一(いち)廟(びょう)」といって、太子の母と太子と后(きさき)を一緒にまつっており、太子の母は阿弥陀、太子は救世観音、后は勢至と見なされていました。当時、人々の間で弥陀三尊が「塵沙界」、つまり荒れ果てた末法の世を救うと信じられていました。
「日域大乗相応地」という言葉からは、親鸞聖人の中に、一切の衆生と共に助かっていこうという「大乗菩薩道」が課題になっていたことがうかがえます。
「諦聴諦聴我教令」という言葉から考えられることは、親鸞聖人はこのときより、聖徳太子から「教命」される者になった、ということです。このことが、10年後の、太子ゆかりの六角堂での百日参籠につながったと思います。
 「汝命根応十余歳」、― 「汝のいのちはあと十年」と言われた時、聖人はどんなお気持ちになったでしょうか。この言葉の切迫感は、物理的な時間の問題からではなく、求道上の行き詰まり感から来るのではないでしょうか。
 「命終速入清浄土」、― この言葉は先の「汝命根応十余歳」にある切迫感に対し、必ず浄土に生まれさせるとの大いなる摂取を示す約束です。親鸞聖人は、「汝命根応十余歳」と言われて、恐れ、焦られたのでしょうか。それとも、「命終速入清浄土」と言われて、歓喜の涙にむせばれたのでしょうか。皆さんは、どのように受け止められますか。
 「善信善信真菩薩」これは、「善く信ぜよ善く信ぜよ真の菩薩を」と読むべきなのでしょうが、聖徳太子が親鸞聖人に向かって「善信、善信、真の菩薩よ」と、親鸞聖人の求道を承認し「菩薩」と礼拝したともとれそうです。ともあれ、これがもとで後年「善信」と名告られるようになったのではないでしょうか。

「親鸞夢記」
  ― 三つの夢告の意味するもの ―

『親鸞夢記』には、19歳の磯長(しなが)の夢告と、28歳の無動寺大乗院の夢告と、29歳の六角堂の夢告と、三つが記されています。この三つの夢告は何を物語っているのでしょうか。

 親鸞聖人自らが書き遺されたと推測されている「親鸞夢記」というのがあります。そこには、今取り上げた19歳の時の磯長(しなが)の聖徳太子廟での夢告のほかに、28歳の時の無動寺大乗院での夢告と、聖人の人生を決定した29歳の時の六角堂での夢告の、三つが記されています。
 この三つの夢告には、聖徳太子と観音菩薩が共通しております。19歳の時、夢告を受けた聖徳太子は「塵沙界を化す」ために観音菩薩がこの世に現れ出てきた方だと信じられていました。29歳の時に参籠した六角堂は聖徳太子建立の寺であり、本尊は如意輪観音であります。つまり聖徳太子と観音菩薩は、娑婆世界で苦悩している衆生を決して見捨てはしないという如来の大悲を象徴しているのです。
 では、この聖徳太子と観音菩薩が親鸞聖人に与えようとした救済は何だったのでしょうか。それを暗示しているのが、磯長での夢告にある「命終速入清浄土」の文であり、六角堂の夢告にある「臨終引導生極楽」の文であります。つまり阿弥陀仏の浄土への往生なのです。ただしそれは、往生といっても一切の条件なしの往生、すなわち、宿業の身を生きるほかなき罪業深重の凡夫の往生です。それが『親鸞夢記』からうかがえる、叡山時代の聖人に課せられていた課題であったのではないでしょうか。

親鸞聖人と夢告(むこく)
   ― 夢告の意味するもの ―

 親鸞聖人は、たびたび仏の側から夢告(夢の告)をお受けになっています。それはどんな時かというと、厳しい現実を前にして、今までの考えでは前にも後ろにも進めなくなった危機においてであったようです。聖人は夢告によって、新しい一歩を踏み出していかれました。

 皆さんは、「夢告」と聞き、どんな風に感じられますか。私は、はじめ違和感をもちました。仏教は、言うまでもなく目覚め(自覚)の宗教です。それなのに、「夢」で「仏からお告げを受ける」となると、それはもう「仏教」と言えないのではないかと、そう思ったりしました。しかし次第に、夢こそ深い真実であることに気づきました。
 宗教は眼前に現象している存在(事実)の背後にあるはたらきを感得していくものです。そのものをして、そのようにあらしめているところの超越的なはたらきは、肉眼を超えた智慧の眼でしか見ることができません。それは深い意識に基づく智慧であり、日常意識のしずまった彼方から現れ出てくるものです。ですからそれは、深い瞑想や、夢告というかたちを取るのです。
 夢ということでは、親鸞聖人の妻・恵信尼にも意義深い夢の話があります。親鸞聖人のご往生は娘の覚信尼が看取りましたが、覚信尼は、聖人がほんとうに浄土へ往生できたのか、疑いをもったようです。そんな思いをもって、覚信尼は聖人のご往生を越後にいる母に知らせました。それに対する恵信尼の手紙が今も遺っていて、そこに、恵信尼は親鸞聖人を観音の化身と感得した夢を見、生涯、親鸞聖人を観音として仰いできた、ということを書き記しています。夢は深い深い心の真実と言えるのではないでしょうか。
 それにしても、親鸞聖人は、なぜ、かくも聖徳太子を敬慕されたのでしょうか。大きな謎であります。

百日参籠

 親鸞聖人の比叡での生活もすでに20年がたちました。磯長の廟で聖徳太子から告げられた10年の歳月も過ぎようとしていました。追い詰められた聖人は、28歳の暮れ、無動寺大乗院に参籠し、そこで受けた夢告により、正月から聖徳太子ゆかりの六角堂への百日参籠を思い立たれました。 

 親鸞聖人19歳の時、磯長の太子廟で「汝命根応十余歳 命終速入清浄土 」と夢告を受けてから、はや10年が経とうとしていました。予言された命終の時が近づこうとしているのに、「速(すみや)に清浄土に入らん 」という約束に対する確証も得られぬままでありました。『親鸞聖人正明伝』によると、追い詰められた聖人は、28歳の冬、延暦寺東塔の無動寺大乗院に21日間の
参籠をします。すると、結願の前夜、如意輪観音より、「汝の所(しょ)願(がん)まさに満足せんとす。我が願もまた満足す」という夢告を受けられました。歓ばれた聖人は正月10日より、聖徳太子が建立された、如意輪観音を本尊とする六角堂への百日参籠を始められたのでした。
 この六角堂での百日参籠については、覚如上人の著された『御伝鈔』や恵信尼の『恵信尼消息』にも出てきます。はたして、親鸞聖人は百日参籠によって何を獲得されようとしたのでしょうか。
 東本願寺から出ている『宗祖親鸞聖人』には「出家僧とか堂僧などとして行を積むのが仏道であるのか。…… 山をすてて街に出で、わが身に素直に生きていくなかに仏道があるのか」という問いであったと書かれています。つまり、仏教は「出家」という形で求めるものなのか、それとも「在家」の中にこそあるのか、ということでありましょうか。26歳の時、赤山明神で不思議な女性に出遇い、仏教とは一切衆生の助かる教えでないのかと問い詰められた聖人です。「出家」か「在家」かという問題は、単に個人的な問題というより、「大乗仏教とは何か?」「真の救いとは何か?」という問題であったと思います。
 このことについて、私は『恵信尼消息』から親鸞聖人のかかえていた課題を考えてみたいと思います。『恵信尼消息』によれば、親鸞聖人は比叡の山にいたとき「堂僧」をつとめておられました。堂僧とは、比叡に伝えられていた不断念仏の行を常行三昧堂で行う僧のことです。常行三昧堂では、90日間にわたって、念仏を唱えながら阿弥陀如来の周りを歩き続ける常行三昧の行がおこなわれていました。親鸞聖人が堂僧であったということは、比叡時代から、阿弥陀仏に自己の救済を求めて、念仏を称えていたということであります。
 『恵信尼消息』は六角堂参籠にこめられた願いを「山を出でて、六角堂に百日こもらせ給いて、後世を祈らせ給いけるに …」と書いております。「後世」(後生、来世、来生)とは、「現世」(今生)を終えた後の「世」、つまり死後の世界のことです。叡山時代の親鸞聖人にとっては、自身の「後世」が不安であり、「後世の助かる」道を祈っていたのではないでしょうか。
 ところが、堂僧として、90日間にわたる常行三昧という荒行を行っても「後世」の助かることに確信がもてなかったのです。それは何故でしょうか? 実は、比叡の山で説かれていた極楽浄土への往生は、『観無量寿経』に説かれているように、定(じょう)善(ぜん)十三観を行じて阿弥陀仏やその浄土を観想し、さらには散(さん)善(ぜん)を行じて功徳を積み阿弥陀仏の来(らい)迎(ごう)にあずかるという、極めて困難なことだったのです。
 源信僧都がつくった二十五(にじゅうご)三(さん)昧(まい)会(え)という結社は、お互いの極楽往生を助け合う秘密結社でありましたが、そこに参加できるのは宗教的境地においても社会的地位においても少数の選ばれた者だけでありました。

・こんな限られた者だけしか往けないようなものが阿弥陀仏の浄土なのか?          
・また、定善十三観というが、それは非日常的な意識の中での幻視でないのか? 
・阿弥陀仏にはそんなかたちでしか出遇えないのか? 
・臨終の正念までその往生の可否が判らないようなものが本当の往生といえるのか? 
・そもそも阿弥陀仏は、末法の世を生きる穢悪(えあく)の凡夫に、そんな難しい行を要求しているのか? 
・もし、私に助かるということがあるとするなら、この私のままで助かるほかはないのではないか?

六角堂の参籠は、浄土往生をめぐるギリギリの問いをもってのことであったと思います。

六角堂の夢告

行者宿報設女犯
我成玉女身被犯
一生之間能荘厳
臨終引導生極楽

 さて、こうした課題をかかえて始まった参籠が次第に煮詰まっていくなかで、ついに九十五日目の暁に、親鸞聖人は「行(ぎょう)者(じゃ)宿(しゅく)報(ほう)にてたとい女(にょ)犯(ぼん)すとも、我(われ)玉(ぎょく)女(にょ)の身となりて犯せられん。一生の間能(よ)く荘厳して、臨終に引導して極楽に生ぜしむ」という救世菩薩の声を聞き取ることになりました。この夢告こそ、「これはこれわが誓願なり。善信この誓願の旨趣を言説して、一切群生に聞かしむべし」と言われるように、浄土真宗の出発点となるものでした。はたして、この夢告の意味するものは何なのか。なぜ、この夢告が浄土真宗の教えの宣言という意味をもつのか、しばらく考えてみたいと思います。
 最初に、この「女犯偈(にょぼんげ)」の意味ですが、おおよそ以下のようになるのではないでしょうか。「行者よ、もしあなたが宿報によって女犯の罪を犯さずにおれないならば、救世観音の私が玉のような女性となってあなたに犯されましょう。(そして観音の力で、あなたの犯した「罪」を浄土に往生する「徳」に転じてあげましょう。つまり、)私は一生あなたに連れ添い、あなたの人生を意味あるものにしてあげます。そして人生の終わりに臨んでは、あなたを引導して阿弥陀如来のまします極楽浄土に生まれさせてあげます。(決して女犯の罪により地獄に堕ちると恐れてはなりません)」。
 われらの罪深さは個人的な努力を超えたもの、― いかに誠実にそれをやめ、それから抜け出ようとしても叶わぬもの、つまり「宿業」であることの確認がされています(行者宿報にてたとい女犯すとも)。そして、罪業深き身が正真正銘の私ならば、私にはついに救いはないのかと悲しんでいると、如来の方から「私がその罪を引き受けましょう」と手を差し伸べて下さったのです(我玉女の身となりて犯せられん)。阿弥陀仏は罪業深き衆生を裁くのでなく、宿業の身を生きるほかなき衆生の悲しみに寄り添うて下さる仏でありました。
 そのうえ、浄土往生は後生(死後)のことかと思っていたら、「一生の間能く荘厳して」と言われるように、現生(生きている時)からその利益が与えられると言うのです。また極楽への往生は、「臨終に引導して極楽に生ぜしむ」と約束してくださり、臨終の正念を心配する必要もなく、ただ今より約束されることになりました。つまり、阿弥陀仏の浄土へ生まれるには、非日常的な時空において自力の限りを尽くす(菩提心)ことが必要なのではなく、宿業の身を大悲してやまぬ阿弥陀仏の本願力に乗托することだけで良かったのです。こうして如来の本願力に乗托する凡夫往生の道が開かれるとともに、助かるのはいまだ来ぬ「後世」のことではなく、ただいまの「現生」から始まることになったのでした。
 このように、この夢告には、のちに法然上人のもとではっきりと自覚されてくる「ただ念仏」の教えの萌芽がすでにして含まれていました。だから救世菩薩は、「これはこれわが誓願なり。善信この誓願の旨趣を言説して、一切群生に聞かしむべし」と言われたのだと思います。