藤谷純子

念仏生活を妙好人に学ぶ①

榎本栄一さん


 明治三十六年十月、淡路島三原郡阿万村に生まれる。五歳の時大阪に出て西区新町で 父母が小間物化粧品店を始める。幼少年時代は体が弱く、小学校一年の時など半分くら いしか学校に行けなかった。淡路福良の伯父伯母がかわいがってくれて、休みになると 淡路島に帰った。一週間淡路巡礼の旅をさせてもらってもいる。父母や伯父伯母そして 高等小学校の担任の古武弥之助先生にかわいがられ愛され、金杉太郎君という親友もい て恵まれた少年時代を過ごしている。十五歳の頃に父親(五十歳)をなくす。兄弟四人 (弟二人妹一人)とも結核を患い三人を亡くしている。病弱であったが、十九歳の頃よ り母親と家業に精を出す。詩を書いて投稿している。
昭和二十年三月の大阪大空襲で丸焼け無一物となり、家族七人淡路島に逃れる。終戦 後、大阪ミナミの焼け野原に単身住み込んで復興に励み、二十五年二月、東大阪市高井 田市場で化粧品店を開業する。
聞法は、始めが暁烏敏先生で、「汝自当知」ということだったという。それから金光 教の高橋正雄先生、そして松原致遠先生に「念佛申しながら内観深まり、内観深まりな がら念佛申す」という教えをいただいた。
  昭和五十四年十二月末、閉店廃業する(七十六歳)。
平成六年度「仏教伝道文化賞」を受賞
  平成七年 九十一歳 往生

既刊詩集『群生海』『煩悩林』『難度海』『光明土』『常照我』『無辺光』『尽十方』『無  上仏』 詩文集『いのち萌えいずるままに』

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妙好人とは


・『観無量寿経』に、「もし念仏する者は、当に知るべし、この人はこれ人中の分陀利華  なり。観世音菩薩・大勢至菩薩、その勝友となりたまう」とある。
・『散善義』に、「もし念仏の者は、すなわちこれ人中の好人なり、人中の妙好人なり、  人中の上上人なり、人中の希有人なり、人中の最勝人なり」とある。

      『群生海』より
       
  底のひかり

│今日まで
│生きた甲斐あり
│人の世の
│底のひかりが
│身にしみて
│わかるようになった

│  冥恩

│二坪半の店
│十坪の家
│四人の子どもと妻
│これが私の
│今日までの全部である
│少しあわれなようであるが
│冥恩を感ずること切である

│  晩年

│肉体はおとろえるが
│こころの眼がひらく
│人間の晩年というものはおもしろい
│今日まで生きて
│いのちの深さが見えてきた

│  そっと

│どうにもならんことは
│そっと
│そのままにしておく

   『光明土』より

  │ 海一味

│この私を凡夫と知るのに
│ながい月日かかり
│みれば周囲の人びと
│凡夫のままで光っている

│  摂取光

│この光にふれたら
│虫はむしにうまれて
│よかったと申します
│ひとは この私にうまれて
│よかったと申します

│  煩悩身

│私をつつむ大気も
│大悲心も
│眼にはみえねど
│この煩悩身で
│ほのかにもわかります

│  光る凡夫

│如来さまは
│ひとそれぞれの
│うまれつきを
│よしあしは申さず
│ただ そのままに覧(み)てござる

│  天地開闢(てんちかいびゃく)

│たまたま人間にうまれ
│久遠刧よりの生死海(かなしみ)に
│なむあみだぶつの
│眼が開き

    『常照我』より

│  ただ照らされ

│いつまでも尽きない
│名聞勝他というぼんのう
│いまはこのままを
│ただ阿弥陀さまに照らされ

│ 業海照耀(しょうよう)  
│ 心に浮かぶは善鸞様のこと

│あわれわが妻も
│とつがぬわが娘(こ)も
│われもまた
│この業海(うみ)をただよい
│すくわれぬままにすくわれ

    『尽十方』より

  あるがままの

│御光照(おてらし)をこうむりながら
│業を生きる
│あるがままの自分に手を合わす
│如来さまは
│智慧光にまします
│慈悲光にまします

  ひとの世

│いわぬが花ともうしますが
│人さまの短所には目をとめず
│ただ温かくみるだけの
│修行をつづけたい

│ 南無なみかぜ

│なみかぜの
│ないせかいをねがわず
│いま なみかぜは苦にならず
│このなみかぜには
│いつも 御仏光(おひかり)がさしており

│  こころの中で

│ここにいのちたまわり
│何十年がぼうぼうとすぎ
│いま こころの中で
│手を合わせ
│あるがままを いただいている

│   大悲に照らされながら

│われら 凡夫は
│我欲のままに 行動するので
│いま地球は 病んでおり
│孫や曾孫の代にはどうなっているやら

   『無辺光』より

│  恭敬

│家族を
│むかしは教えようとし
│いまは あるがままを
│しずかにみる
│ひそかに
│恭敬するようになりたい

│  日々礼拝

│むずかしく考えなくてよい
│ともかく
│日に日に寄せ返る
│大波小波を
│しずかに拝めるようになれば

     『無上仏』より

  無上仏

│無上仏ともうすは
│かたちもましまさぬゆえ
│私のなかへ おはいりになり
│私もまた 無上仏の
│無辺の 御ふところで
│ふかまる 老いを拝みます

│  下品下生 

│形なき 御いのちから生まれ
│形なき 御いのちに育まれ
│形なき 御いのちに還ります

│  五濁うず巻く

│この五濁うず巻く
│忍土ともうすところは
│下品下生の私が
│じねんに お育てをこうむる
│真(まこと)に だいじなところ

│  大悲のながれ

│南無阿弥陀仏の 御光に
│こころ 照らされ
│摂取され
│この一日いちにちの ながれが
│じねんに 大悲のながれとなり


  水のこころ

│水はひくきにながれる
│明治うまれの私が 今日ま(こんにち)で
│水のながれを みてまいりましたが
│いつみても ひくきにながれおり
│ひくきにながれる
│水のこころは
│なむあみだぶつのこころ

│一切のいのちあるものを
│生き生きさせる

│  しる

│ながい歳月を ついやして
│自分の愚かさをしり
│この愚かさを 大悲はいつも
│お照らし くださるのをしり

○ 私には我欲という煩悩がつきまとっておりまして、それがなかなか自分の思うとおりにまいりません。これをどうやって調御いたらいいのか。結局私におきましては、念仏を申してお照らしをこうむって、ただそれを見ておるという意外にありません。そしてほのかに見せてさえいただいていたら、このどうにもこうにもならん自分の心が、またおのずと淀みなく流れていってくれると・・・ これがまあ、私の行きついた果てでございます。                                     (『いのち萌えいずるままに』)

○ さようなら

 あらゆる生きものにまんべんなく迫りくる老衰現象を、つぶさに体験しながら書き残したいと願うていたが、方向がそれ、脳溢血となり、この「赤いよだれかけ」で終わりになりました。
  三十年にわたるながい小詩の流れも(思わぬ賞もいただき)、もうこのへんで終わってもよいころ。
  読者の皆さんどうもありがとうございました。今生で巡り会うた皆さん、さようなら、さようなら 永遠にさようなら
    一九九五年一月 九十一歳 栄一 『無上仏』