藤谷純子

   念仏生活を妙好人に学ぶ ②   

因幡(いなば)の源左さん


 足利源左衛門  通称を源左という。天保十三(一八四二)年四月十八日 鳥取県気高(けたか) 郡青谷町山根に生まれる。農業と紙漉(かみすき)を仕事とした。昭和五(一九三〇)年二月二十日 寂  享年八十九歳

   一 入 信

 同行「源左さん、あんたはいつ頃から法を聞き始めなさいましたかやぁ 」 源左「十九の歳だったいな。おらが十八の年の秋 旧の八月二十五日のこってやあ。親父と一緒に昼まで稲刈りしとったら、親父はふいに気分が悪いちって家に戻って寝さんしたが、その日の晩げにゃ死なんしたいな。親父は死なんす前に、「おらが死んだら親様をたのめ」ちってなあ。その時から死ぬるちゅうなあ、どがんこったらあか。親様ちゅうなあ、どがんもんだらあか。おらぁ不思議で、ごっついこの二つが苦になって、仕事がいっかな手につかいで、夜さも思案し、昼さも思案し、その年も暮れたいな。あくる年の春になってやっとこさ目が覚めて、一生懸命になって願正寺様に聞きに参ったり、そこらじゅう聞いてまわったいな。 (略)ところが、ある年の夏でやあ。城谷(じょうだん)に牛(でん)を追うて朝草刈りに行って、つものやあに六把刈って、牛の背の右と左とに一把ずつ付けて、三把目を負わせうとしたら、ふいっと分からしてもらったいな。牛(でん)や、われが負うてごせつだけ、これがお他力だわいやあ。ああ、お親さんのご縁はここかいなあ、おらぁその時にゃ、うれしいてやあ。
 牛(でん)に草を負わした頃、やっと夜が明けてきたいな。そこに一休みしとると、また悩みが起こってきてやあ。その時「われは何をくよくよするだいやあ、仏にしてやっとるじゃあないかいや」と如来さんのお声がして、はっとおもったいな。
 ご開山様が「おのが使いに、おのが来にけり」ってなあ。おらあ牛(でん)めに、ええご縁をもらってやあ。もどりにゃ、お親さんのご恩をおもわしてもらいながら戻ったいや。勿体(もったい)のうござります。ようこそようこそ、なんまんだぶなんまんだぶ」                (源左三〇歳頃のことか 源左の姪棚田はつ直話)
  *父親は四〇歳で、急性の伝染病「ころり」で死亡

二 子供の死

 源左は二十一歳で結婚をし、ゆう、みつ、竹蔵、萬蔵という子供がいたが、源左が八〇歳の時に竹蔵が四九歳で死に、八一歳の時に萬蔵が四七歳で亡くなった。そして竹蔵と萬蔵は精神を病んだことがあった。その時も「なんにも因縁だけなあ」と言ったという。
 ご本山の布教師が源左に悔やみを言われた。「長男の竹蔵さんが亡くなられて、お淋しいでござんしょう」 すると源左、「有り難うござんす。竹奴は早うお浄土にまいらしてもらいまして、ええことをしましただがやあ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」また、「竹はなあ、この世のきりかけを済まして参らせてもらったわいの。おらあ とろいだで、一番後から戸をたてて参らせてもろうだがよう」

三  牛( 牛は 源左にとってお慈悲を分からせてくれた大事な善知識である)

・「性のきつい牛だって憎まずに可愛がってつかんせい。𠮟って酷(むご)うするけれ、ひねくつだがやあ」
・田を鋤かん仔牛は源左によく頼んできた。源左は仔牛のするがままにしておいた。別段歩かせようともせず、よそ見すればしたままに、草を食いたがれば食わせたままにしておいた。そうしてから後でこう言った、「デンよ、まあ歩かいや、人さんが横着者だって笑われるけれなぁ」仔牛はこっとりこっとり歩き出して鋤き始めた。
・牛を連れて出かける時、「デンよデンよ、今日もまた働きに行こうで、晩にゃご馳走してやるけえなぁ。さあデンよ、でかけよういや」 帰る時、「デンよ、今日は一日えらいめさしたなあ。帰(もど)りまで荷物持たせえのう。デンに一人りや持たせらせんぞ。おらもこの通り持って帰(いぬ)るけんなぁ」

四 源左語録

・「おらは、まんだ人さんに堪忍してあげたことはござんせんやあ。人さんに堪忍してもらってばっかりおりますだいな」 (「ならぬ堪忍するが堪忍」との西田天香師の話を聞いて)
・光輪寺の奥さんを、人が可愛げがないと言うのを聞いて源左、「可愛げがない可愛げがないって、ある方が出しゃあええがなぁ」
 ・「この源左のは「そのままだぞ」のほかにゃないだいなあ」
・源左さんは、田仕事がすむと手を洗って押しいただかれました。
・源左が五十代の頃、火事にあって丸焼けになった。その時「御院家さん、重荷を下ろさしてもらいまして、肩が軽うになりましたいな。前世の借銭を戻さしてもらいましただけ、いっかな案じてごしなはんすなよ」
・家内の兄にだまされて自分の持山を売られてしまったことがあった。これを公に訴えれば人に傷がつくのを思い、争わずして身を引いた。「何よりのむんを、むらってあるけんのう」と言っただけだった。
・「ただのただになるまで聞けよ」 源左がよく歌った歌「ただのただでも ただならず 聞かねば ただは貰われぬ 聞けば聞くほど ただのただ はいの返事も あなたから」
・「おらにゃ苦があって苦がないだけのう」
・「他人より悪いこの源左をなぁ、一番真っ先に助くるのご本願だけえ、助からぬ人なしだがやあ」
・「おらがやあな者を、親様ならこそ、ようこそようこそ」
・表彰状を受けて、「源左はのう、行きとどかんで、まっとしっかりせえってのご意見にあうてのう。褒美じゃないけ、ご催促だけのう」(源左は若いときから、県知事からの表彰状を四回受け、ご本山からは金泥の六字名号を受けている)
・「ご法義を聞かしてもらやあ、たった一つ変わることがあるがやあ。世界中のことが皆本当になっだいなあ。人さんが「源左は鬼のやあなで」って言われりゃ、そりゃ本当だけれ、地獄の出店の子だけのう。また人さんが「源左は活仏さんのやあなで」って言われりゃ、それも本当だし。いまに仏にしてもらうだけのう」
・旧正月の十日頃、源左さんの最後の言葉が聞きたくてお見舞いに伺ったとき、「三世に一仏、恒沙に一体、仏の中の大王様が、我が往生をかけものにして、助けねばおかんの大願だけになあ」と言って、握ったその手を離されませんでした。(安岡しな)

               五 源左が、好んで人にしてやりたがったこと


人の荷物を持つこと   肩をもむこと  灸をすえてやること
その時間は人が自分のそばにいてくれるので、親様の話を聞いてもらえる 。

六 なぜ妙好人が生まれるのか

 「高座にかかる説教、悪人正機の教え、厚く法義を守り合う同行たち、口々に出るその称名、この中に源左も幼いときから育ったのである。もし山根の村に篤信な善男善女がいなかったら、よもや源左はその仏縁を結びえなかったであろう」  
                       ( 出典『妙好人 因幡の源左』柳 宗悦・衣笠一省 編 )