藤谷純子

念仏生活を妙好人に学ぶ④

三味線ばあちゃん こと 岡部はる(つね)さん

 岡部はるさんは明治23年、石川県内灘(うちなだ)町字室(むろ)に生まれた。父親は猟師で、毎日お勤めを欠かさなかった。はるさんはそのそばに座って、幼いときに「きみょうむりょう」をおぼえてしまった。八人兄弟の末っ子で、父から一番可愛がられたという。
 17,8才頃に自分から大阪に出て、芸者家に身を寄せて厳しい修行に耐え、一通りの芸も身につけた。吉本興業の舞台でエンタツやアチャコと演じたり、一時期は座長となって巡業して大金をもうけたり、金やダイヤの指輪をいくつもしてるほどに有名だったが、結婚に失敗してからどん底の生活が始まった。
三味線ばあちゃんには北海道に渡った弟がいて、その弟が若死にしたため遺された三つか四つの女の子を引き取って養女にしていたのだが、やがて再婚した相手がその娘に手を出すということが起こった。その苦しみを抱えて、それから逃れたくてお説教を聞きに走ったという。「聞いても聞いても心は苦しうなるばっかりで、どないにもならん。そりゃあ母娘で一人の男を取り合うのやさかい・・・ この時ばかりはつくづく我が身を畜生やなぁと思いました。48から51の年までの丸三年間、これがほんまの地獄やなぁ思う生活やった」、こんな生活にはこれ以上辛抱できんと思った婆ちゃんは「こうなったら、わてなとあの娘なと、どっちかこっちか一人に決めてくれなはれ」と主人に迫り、夫は若い方を選んだのでした。
 夫に捨てられた婆ちゃんは、「これが我が身をも相手をも迷わす元や」と、自分で髪を剃(そ)り落とし坊主頭になって、関東二十四拝巡礼の旅に出た。「この娑婆に当てになるものは一つもない。当てになるもんはこのなんまんだぶつ一つや」と、自分に言い聞かせた。
 婆ちゃんは、巡礼に出る前のお念仏を「その時のわてのなんまんだぶつは、こんなちっこいなんまんだぶつやった」と言い、「帰ってきた時のなんまんだぶつは、こなーいな、ばっかいのつかんなんまんだぶつになっとった」と言ったように、「鬼や畜生やと言うて恨んだり憎んだりしてきたわが子と主人こそ、このわてをこの広い道に出してくれんがために、あの姿になってご催促してくれた仏さんやった」と、婆ちゃんの世界が一変したのでした。それから婆ちゃんは、二人が入院している病院に駆けつけ、泣いて礼を言った。二人も、「すまん」「堪忍して」と言って泣き崩れ、三人して抱き合ったのでした。
 「ばっかいのつかんなんまんだぶつ」になった三味線ばあちゃんは自在を得て、戦時中は大阪の漫才師などを中心に結成された従軍慰問団に加わって満州に渡り、兵隊さんと泣き笑いして励まし、帰ってからは仏縁のままに歌ったり踊ったり、お念仏をたたえての放浪生活を送ったのだった。次の歌には、婆ちゃんの心意気が聞こえてくるようだ。 
ピンピンシャンシャン 声張り上げて唄うまんまがお他力や
どこで死のうと倒れよと そこがそのままお浄土や
  三味線ばあちゃんには、独特なエピソードがたくさんある。中でも暁烏(あけがらす)先生との出会いは、昭和26年、本山の赤字財政を立て直すために盲目の暁烏先生が総長になっておられた時だった。ラジオで本山の深刻な赤字財政のニュースを聞いた婆ちゃんは、「こりゃあかん。えらいこっちゃ、わてはお西やけど、生まれた家はお東や。その本山が借金で困っとるいうの聞いたら、何やら生まれた親の家が逼塞しとるような気イしてな」と、吉崎の蓮如忌で上がったお金を持って本山に来た時に、暁烏先生は、乞食同然の格好をしている婆ちゃんをすぐに総長室に呼んで、「このお金をどうして集めた?」と聞いた。そこで婆ちゃんが、請われるままに三味線を弾きながら歌った歌は、次のようなものだった。

一つともせ。 人と生まれたうれしさを、忘れて暮らすも欲のため、取ろうつかもうで日を送る。 聞いた、覚えた、信じたと、和上様より高上がり、 自慢たらたら暮らせども、百まで保たぬこの命、 死んで未来はどこなれば、 一百三十六地獄  めぐりめぐって今は早や、 八万地獄の釜底で、 時を争うて責められる。 そんなお方はおまへんかいな。 ほら、ザクザクじゃい。 (十番まで続く)

 これを聞いた先生は、「文句は下作なが、こころはありがたい」とおっしゃって、婆ちゃんがどうしてそこまで念仏を喜ばれるようになったのかをたずねられた。そして職員にも、「仕事はいいから話を聞け」と言ったという。また先生から「十年後には親鸞聖人の七百回御遠忌があるから、また献金を頼むな」と言われて、婆ちゃんは毎年十万円ずつ七回おさめて、先生との約束を守ったのだった。この三味線ばあちゃんという名づけ親は暁烏先生であった。
  婆ちゃんは石川県の内灘海岸に小屋を建て、浜に打ち上げられていたされこうべを入り口にかけて「髑髏庵」(どくろあん)と名づけて住んでいた。元気な間は旅から旅への暮らしだったが、最期は明達寺の報恩講に参り、次に崇信学舎の報恩講にも参って、暮れの31日に庵に帰って正月を過ごし、1月の4日頃か、木箱を並べて蒲団を敷いただけのベッドの上に、両の手を合わせて数珠を掛けた姿で亡くなっていたという。心配してたずねてくれた法友に発見された。1972年(昭和47年)行年84才であった。

三味線ばあちゃんが吉崎の蓮如忌などに歌っていた数え歌

二つともせ。再び出られぬこの娑婆を、知っていながら野放図に、人の前では善人らしい顔をして、その内心は、人がこけよが倒れよが、われさえよければそれでよし、田地田畑買い集め、土蔵倉建て家を建て、達者自慢ではたらき自慢で暮らせども、百まで保たぬこの命、死んで未来はどこなれば、塗(と)炭(たん)地(じ)獄(ごく)に堕(お)ちるなり。塗炭地獄の苦しみは、天には業報の網を張り、地には烙印(らくいん)の釘(くぎ)を打ち、四方四面と申するは、鉄(くろがね)の扉を丁(ちょう)と閉め、その真ん中に罪人を、めったやたらにどし込んで、その扉を閉めるときは、爆弾どころか天地もこだます音がするわいな ―。

三つともせ。未来どころかこの世から、三悪道のただ中に、暮らしているとも気もつかず、あれやこれやで日を送る。婆さん参ろうとさそうたら、闇に提灯(ちょうちん)、月夜でなけりゃ。雨の降る日は下駄傘じゃま。天気良ければ洗濯しようと、何のかんのと言いたてばかり。またも参ろうと誘うてみれば、わしももそっと小金を貯めて、娘とつがせ息子に嫁取り、隠居の身分となったなら、それからぼちぼち参るわい。年をとったら耳は聞こえず目は見えず、足はいよいよ根気ない。それでも百まで生きられぬ。死んで未来はどこなれば、血の池地獄に堕ちるなり。血の池地獄の苦しみは、幅も四万と四仞(じん)なり。深さも四万と四仞なり。八万八仞のその中へ、糸より細い橋を架け、婆さんこの橋渡れ、この橋渡って向こうの岸に着くなれば、成仏得道得さすべし。あまり鬼ども責めるから、渡らんとすれど、橋は細し身は重し、真ん中よりぶっつりと、体は悪処(あくど)に沈むなり。滝と延びたる黒髪は、ただ浮き草のごとくなるわいな―。 

四つともせ。世渡りするのに心をとられ、極道・殺人・詐欺やすり、悪業ばかりで日を送る。それでも百まで生きられぬ。死んで未来はどこなれば、釘抜き地獄に堕ちるなり。釘抜き地獄の苦しみは、まず人間一人に49本の釘を打つ。打たれしところはどこどこぞ、頭(かしら)に3本、目に2本、両方の腕(かいな)に六つの釘、胸と腹とに14本、腰より足に至るまで、24本の釘を打つ。頭3本のその科(とが)は、人間世界に生まれ出で、天道様をいただいて、遊び暮らしたその科じゃ。両眼2本のその科は、大の眼をかど立てて、親をにらんだその科じゃ。両方の腕の六つの釘、人の宝に手をかけて、盗み取ったるその科じゃ。胸と腹との14本は、我慢我執の心が強いから。腰より足に至るまで、24本のその科は、同じ仏法の世に出でて、ちかくのお寺に一座も参らん、テコ、罰じゃわいな-。

五つともせ。生きる人生50年。お釈迦がつけたか、誰がつけた。人生わずか50年。人間死ぬると思うなよ。仏とも法とも知らぬ人、そんなお方は犬死にじゃ。本願力に助けられ、死んで地獄に堕ちたとて、死出の山路を打ちこわし、血の池埋めて家建てて、地獄の釜で飯炊いて、三途の川で船遊び、弥陀と二人で暮らすなら、原子爆弾落ちたとて、水素爆弾落ちたとて、いかなるロケットが来たかとて、何のこわかろ、わしゃおかしいわいなー。

六つともせ。無理なことして金貯めて、地位や名誉や財産や、この世ばかりに執着し、それでも百まで生きられぬ。臨終しつけ(?)になったなら、造りし罪が身を責める。弥陀の浄土の極楽は、西にあるとはいうけれど、行って見てきた人もない。まこと地獄極楽は、西にもなければ東にもない。というて北にはなお更ない。みんなわが身の身にござる。皆身(南)にあるわいなー。
     七つともせ。(テープ欠落で不明)

八つともせ。やたらに宗教争いするなかれ。浄土・天台・日蓮・達磨大師が弘法でも、釈迦のお弟子には間違いない。あんまり喧嘩せぬように。一人ひとりのしのぎなら、浄土真宗の親鸞聖人の弟子となり、なむあみだぶつの道中は、なんにもいらない。行も願もなんにもいらん。その身その機のそのままで、落ちるまんまを救いに会う。こんなありがたいお念仏を、もろうたお方はよいけれど、もらわんお方は早くおもらい下さんせ-。

九つともせ。衣着て袈裟着た坊さんでさえ、愚痴も起これば欲も出る。まして在家のわれわれじゃ。愚痴は起こるし、欲は出る。苦から苦に入るそのままを、いらわず逆らわず計らわず、ありていがかりのこのなりじゃ。人のことじゃと油断すな。わが身にかかる一大事。未来の大事を忘れずに、なむあみだぶつはしっかりと、夜昼なしに称えなさい-。
   
十ともせ。尊いみのりを聞きながら、眠り半分で聞いておるー
                                   (テープはここで終わり)

〇 お守りなんてなーんにももっとらん。そないなもん持たんかて、なんまんだぶつ一つで智慧も力ももらえるのや。・・・・お念仏もろうて生きとると、逆ろうとったもんが逆らわんようになる。あなどっておったもんもあなどらんようになる。そやさかい、仏法は向こうのいうとおりに従うとったらいいのや。向こうが高めてくれたら高めてもらえればよし、 低めて見たら相手を低め返すのじゃなしに、不憫をかけてみたらいい。こないに思うて人とつきあっとれば腹たてんでもいい。それも我が思おうと思うとそうはいかん。みんな仏さんが思わせてくれるのや。

〇 あのな、なんまんだぶつのお念仏もらうとな、汚いいうもんなくなるのや。人を汚いいうこと思えんようになる。我が身を見てみなはれ、汚いぞー。よう探索してみなはれ、根性も体もこれほど汚いもんはないがな。

〇 ああ、わての肚(はら)がどこで決まったかいうことかいな 。
それは、われいうもんをよく見せてもらうのや。われいうもんが、こういうわれやったかいな-、われの心の中で思うとることを見せてもろて、われいうもんの値打ちがどれだけのもんや、いうことが知らされて、あーあ、これっぽっちの値打ちのなかったわれやった、地獄がいやで、極楽へ行きたいいうて願うとるけど、どう考えてみても極楽へ行けるわれではない。今まで外ばっかり見て、人を非難しとった。それを仏さんにあうて、外に向かっとった心を静めてわれを見せてもろうたら、何もかもご恩よりほかない、何もかもお助けやった。このわれいうもんを助けてくれる仏さんやった。今現在われがこうしておれるのも、みんなお助けの中で生かしてもろうとるのや。このわれいうもんを見せてもろうと、毎日の仕事いうもんは、地獄行きよりほかにしとらん。極楽行きいうところは、こっから先、爪の先ほどもできんのやさかい、そしたら、あーあ、落ちるまんま、そのままやったなあ思うと、そこで手が打てる-。