藤谷純子

念仏生活を妙好人に学ぶ(五) 2018/6/9

木村無相さん

 明治三十七年 熊本県八代市のトンネル工事現場の親方の子として生まれるが、私生児として育てられ、三才の時に朝鮮・満州に渡る。十七才の時一人帰国、この時『歎異抄』に出会う。二十才で再び満州へ行くもゆきづまり、二度の自殺未遂をする。それがきっかけで煩悩を断じて涅槃を得ようと求道の生活が始まる。高野山に入って真言宗の学問修行をするも、三十一才の時に、真言は難しい、如来さんに助けて貰わんとしょうがないとフッ、フッと念仏が唱えられた。   
五十七才から六十九才まで、東本願寺同朋会館の守衛をつとめ、六十六才の時七十日間かけて親鸞聖人御流罪の地を巡った。身寄りのなかった無相さんはお同行のお世話をいただいて、六十九才の時福井県にある老人ホーム太子苑に入居。七十六才には特別養護老人ホーム和上苑に移る。狭心症や心筋梗塞を繰り返して、昭和五十八年一月六日七十九才で往生。

無相さんの念仏詩

  おもい出

生き死にの
道にまどいて
来し聖山(やま)に
深雪(みゆき)ふるなり
空ふかきより

高野(たかの)の山に
のぼれども
こころ空しく
くだりたる
わが若き日の
かなしみも
この歳にして
なつかしき

  よかったね
     ー若き日に自殺未遂二回

自殺しなくて
よかったね

「いのちは方の宝なり」
生きていりゃこそ
法にも遇える

自殺しなくて
よかったね

ぼんのうよ── 
わたしが わるいのだ

ぼんのうは
わたしの いうまま
ぼんのうは
わたしの おもうまま

ぼんのうよ── 
わたしが わるいのだ

生きるんだ
生きるんだ
煩悩の一生を

生きるんだ
生きるんだ
無常の一生を

煩悩 無常が
人間の一生
ナムアミダブツと
生きるんだ

みんな みんな
煩悩具足の凡夫

みんな みんな
となえましょう

みんな みんな
ナムアミダブツ

みんな みんな
ナムアミダブツ

  そのままで
 
信者になったら
おしまいだ

信者になれぬ
そのままで

ナンマンダブツ
ナンマンダブツ


  このまんま

念仏 念仏
いうけれど
念仏もうせば
わかること
念仏なかなか
もうせぬと
念仏行も
およばぬと

信心 信心
いうけれど
信心すれば
わかること
凡夫の信心
つづかぬと
信ずることも
落第と

行信ともに
落第の
この身はおつる
ほかなしと
しられてみれば 
このまんま
ナンマンダブツの
ほかはなし

ナンマンダブツ
ナンマンダブツ
   念仏そのまま

「定散自力(じょうさんじりき)の称名は
果遂(かすい)のちかいに帰してこそ
おしえざれども自然に
真如の門に転入する」

自力の念仏
そのまんま
他力とわかる
ときがくる

自力じゃ念仏
もうされぬ
信前信後
みな他力

念仏そのまま
純他力
ナンマンダブツ
ナンマンダブツ

老人ホームの一室で
血圧が悪くて一人寝ていると
ナンマンダブツ様がおっしゃるには
ここにおると ついておると
はじめて知った
如来さまの居どころ
寸時も離れたまわずに
ここにおると ついておると

ナンマンダブツ ナンマンダブツ
ナンマンダブツ ナンマンダブツ

  道がある

道がある
道がある
たった一つの
道がある

「極重悪人 唯称仏」

  いただきまつる

「極重悪人 唯称仏」

このおことばを
いただきまつる

如来のおおせと
いただきまつる

ナムアミダブツと
いただきまつる

ナムアミダブツ
ナムアミダブツ
 

*危篤状態の中で、「ペンと紙」と言って  書いた言葉

生き死にの
  道はただただ
   ナムアミダ
 ただ称えよの
  仰せばかりぞ
ナムアミダブツ

  称えられなくても
   仰せばかりで沢山

  称えよの仰せがかかっている
   のが念仏の行者