藤谷純子
念仏生活を妙好人に学ぶ(八)                   二〇一八(平成三十)年九月八日
 
   五十嵐  務さん (資料①)

  五十嵐さんは、本籍は新潟県で呉服商をしているお家で、大正十一年六月十五日朝鮮の釜山で生まれました。昭和二十年親戚を頼って別府に引き上げてきてから四十年近く、観光客相手のお土産店をしていたそうです。昭和二十五年上条科子(しなこ)さんと結婚し、一男一女を授かる。お客も減ったので店を閉じ、平成元年六十六歳で東京大谷専修学院に入る。平成三年より四日市別院の法務員となり、七年間勤める。平成二十三年二月二十二日、八十九歳でお浄土へ帰られる。

              藤原正遠先生とのお出遇い 
 
  五十嵐さんが仏法を聞き始めたのは、二十五歳の時でした。熊本の高等工業に学んでいた弟さんが、昭和二十二年に寮で自殺をされたことがご縁になったそうです。
正遠先生との出会いは、二つ上のお姉さんが別府に嫁いでいて、鉄輪の太子堂にお説教に来られていた正遠先生のお歌が、部屋に掛けられていたそうです。
  
 いずれにも行くべき道の絶えたれば口割りたもう南無阿弥陀仏
   生きるものは生かしめたもう死ぬものは死なしめたもうわれに手のなし南無阿弥陀仏   
 来(こ)し方もまたゆく方も今日の日もわれは知らねどみ運びのまま
 
お姉さんから、正遠先生のお話を聞きに行くように勧められてもなかなかその気になれなかったのだが、ある日ふと行ってみようかと思い立ってバスに乗ったそうです。「あの時あのバスのタラップを踏まなければ、自分の人生はどうなっていただろうか。これも如来さまのご活動であったとつくづく思う」とおしゃっています。
  初めてお遇いした正遠先生は、「人間は、全部地獄に堕ちる」「しかし地獄の一番下で」、如来さまが手を広げて待っていてくださる」と言われたそうです。五十嵐さんは、今まで仏法を聞けば、立派な人間に成って、上へ上へと向上してそこに極楽があると思っていたのと百八十度反対だったけれども、その時とっさに「この先生の話は聞いていこう」と思ったそうです。そしてその心も如来さまが起こさしてくださったとお話しされています。  この、正遠先生の「地獄の下に如来さまが待っていてくださる」という教えに頷くのに五十何年もかかったとも言われました。
 
            回心(えしん)

 正遠先生は、「無我」ということを、
   私達は「俺が生まれた、私が生きている」と思っているけれど、実は久遠の過去か  ら永遠にかけて、壊れることのない阿弥陀さまの「おいのち」、即ち「無量寿」の中  に運ばれているのが私どもである。その無量寿の「おいのち」の中から、不思議なご  縁で、今この娑婆に、私として出されて、落在(らくざい)せしめられているのが、私である。そ  れで、如来さまがお与えくださった娑婆のお仕事が終わったとき、如来さまのお決め  になった何月何日何時何分何秒に、ちゃんと如来さまはお迎えにいらっしゃる、「も  とのおまえの故郷に帰っておいで」と、
こういうことをいつも聞かせてくださったそうです。また正遠先生は、仏法で言う一番大きな罪は何だろうかと、皆に質問されて、こう教えてくださいました。  
  阿弥陀如来様のいのちを盗むことである。
こういう教えをいただいて、五十嵐さんに回心の時が与えられたそうです。それは次の『安心決定鈔』の御文だったそうです。
    しらざるときのいのちも、阿弥陀の御いのちなりけれども、いとけなきときはしらず、  すこしこざかしく自力になりて、「わがいのち」とおもいたらんおり、善知識「もと  の阿弥陀のいのちへ帰せよ」とおしうるをききて、帰命無量寿覺しつれば、「わがい  のちすなわち無量寿なり」と信ずるなり。
 
           お与えの「今」を精いっぱい生きる

 別院の仕事を辞めてから、ある晩こんなことがあったそうです。
     夜中に目が覚めていろんなことを考えていたとき、自分はこの七十年間生きて、法  律にふれるような悪いことはしなかったが、人をだまし嘘をつき、やはり私という人  間はえんま様の鏡の前に立つことが出来ない恥ずかしい人間、自分が生きるためには  たくさんの生き物を当然の権利みたいに殺してきた。そういうことを考えていると、  助かる縁がないとは、本当に俺のことだということに、ハッと気づいたんです。そし  て俺は絶対に地獄しか行く先がない男だと感じました。そしたらとっさに、自分の命  も体も全てを投げ出して如来さまに五体投地(ごたいとうち)、無条件降伏ということが起こりました。  それで本当に楽な気持ちになりまして、阿弥陀様の尊い命を生かしていただいている  だけで十分、その「今」がとても大事な、ありがたい「今」に変わりました。