排除と受容 藤谷知道
新型コロナウイルス(以下、コロナと略す)の感染が世界中に拡がり、今では1億人を超える人が感染し、死者も300万人になろうとしている。昨年の正月の段階で、コロナのパンデミックによって、長い時間をかけて築きあげてきた開かれた世界が一瞬にして閉ざされた世界に逆戻りするなど、誰が想像できたであろうか。まことに諸行無常こそこの世の道理であるということを痛感させられた一年であった。
ところで、コロナの感染が急拡大し始めた時、各国の指導者が「コロナとの戦いに打ち勝とう」と国民に呼びかけ、国民もそれに同調してロックダウン等を受け入れた。こうしたコロナは「悪」で、それとの戦いに勝つのが「正義」であるという「排除」の考え方は正しいのか、そのことを少し考えてみたい。
まずなによりも、コロナが人間社会に進入してきたのは、自然の営みを乱した人間の活動に起因しており、瞬時に世界中に拡大したのも、世界中が一つに繋がった現代社会であったからこそである。光が大きくなればその影も深くなるというのが、ものの道理というものであって、一方的に、コロナを「悪」と決めつけ、それとの「戦いに打ち勝つ」などというのは、自身の在りようは省みずに他に責任をなすりつける、人間の傲慢きわまりない発想であろう。
先日、NHKで「ウイルス、それは悪魔か天使か」という番組が放送された。そこでは、人間の側からウイルスを見るのではなく、ウイルスと人間を俯瞰する位置から両者の関係を見ていく科学者の知見が紹介されていた。それによれば、人間にとってウイルスは、時には病気をもたらす「悪魔」となり、時には進化を促す「天使」となるということであった。
「天使」の例として、哺乳類への進化はウイルスからも贈りものであったという驚きの発見が紹介されていた。胎内で新しい命を育てるには、自己ならざるものの侵入を拒絶する免疫機能を無効化する必要がある。その役割を担うのが胎盤であるが、この胎盤はウイルスにあったPEG10という遺伝子が感染を通して人間の遺伝子に組み込まれたことによってできたというのである。
命は免疫機能によって自己を護っている。しかし、自己を護るだけなら、環境に適応していく緩やかな進化はあっても、卵生動物から胎生動物へというような生存の在りようを根元から変えていくような劇的な進化はおこらない。そうしたことはウイルスからもたらされているという驚きの話であった。
本来、生物は自己の内に侵入してくる異物(他者)を排除して自己を護ろうとする免疫機能を持っているが、個々の生物を取り巻く世界は無限に広く、大きい。その圧倒的な攻撃に対し自己に備わった免疫機能では耐えきれなくなった時、生物に死がおとずれる。ところが稀に、その攻撃を何世代にもわたって耐えていくうちに、ついに他者に負けず、かえって他者を自分の一部にした新しい存在に生まれ変わることが起こるというのだ。つまり、新しい生物の誕生は、自己ならざる異物(他者)の受容に成功し、新しい能力を持つようになったことからもたらされる、というのである。
この話を聞き、想い出したのが、人間(ホモ・サピエンス)の進化のことである。人間の自我意識はすべてを自分の位置から観察し、自分を中心にして判断するようにできている。この自我意識は、他の侵入を拒絶して自己の身体を護ろうとする免疫機能が意識のうえに投影されてできあがったものであろう。自我意識と免疫機能と、心と身体とはたらく場は違うが、その本質においては、自己を護ろうとする生存本能であるということにおいて同じである。
ところが人間は、心(意識)をもつことによって、そこで、自己保存の本能を超えて他者と共生する道を手に入れた。心でそれを行えたということは、身体では何万年、何億年とかかっていたことが圧倒的に短い時間で可能になったということである。生命誕生から三十五億年の時間を経て多種多様な生物が地球上に展開しているのだが、わずか三万五千年前に出現した人間がまたたくまに地球上の覇者の如く振る舞うようになれたのも、心によって他者の受容と共生ができるようになったからではなかろうか。
3年前NHKで「人類誕生」という興味深い放送があった。そこで語られていたことであるが、人間(ホモ・サピエンス)より先立って存在していたネアンデルタール人はホモ・サピエンスより大きな脳とすぐれた身体能力をもっていたらしい。それなのに、ネアンデルタール人は絶滅してしまった。なぜなのか。ロビン・ダンバーという学者がその原因を集団の大きさの違いで説明していた。ネアンデルタール人の集団は20~30人ぐらいの小集団であったのに対し、ホモ・サピエンスは100人以上の集団をつくっていた。集団の大きさの違いが道具類の進化の速度に決定的な差を生んだというのである。
ゴリラやチンパンジーも大きな集団を作れない。なぜホモ・サピエンスは大きな集団をつくることができたのか。それは他者を受け入れることができたからである。他者を受け入れるためには、他者を自己のように思えることが必要である。この共感と受容の力こそがホモ・サピエンスがもった新しい能力だったに違いない。人間には、最初の生物から連綿と受け継いできた自己を護らんとして他者を拒絶する本能(免疫機能・自我意識)と、新たに獲得した他者を受容して広い世界を生きようとする本能とが、人間の心の奥深くでせめぎ合っているのではなかろうか。
人間が獲得したところの他者に共感し受容していく心が次第に成熟し、一人の先駆者のうちにおいてはっきりとした自覚となり、それに名を与えて他に知らしめるようになったのが、仏教における「慈悲」であり、キリスト教における「愛」であろう。もし人間の本能が他を排除するものだけであったら、人間は戦いに明け暮れ、ついには滅亡していたに違いない。
この受容と共生の精神が具体的な相となっているのが、浄土教の「本願」の教えであると思う。煩悩を悪と見なし断ち切ろうとして生きられなくなった親鸞聖人は「老少善悪の人」を選ばれぬ本願に摂取されて、煩悩具足の凡夫のままにこの世を生きていく道を選ばれた。本願によって宿業の身を頂いてみれば、それまでの冷え切った観念の世界は消え、喜怒哀楽につつまれた血の通った世界が広がっていたのである。「本願」の教えもまた「他者への共感と受容」こそが人間の究極の本質であることを物語っているように思う。
以上、コロナのことを考えていくうちに、人間とは何かということになり、人間の本質として本願を考えてみることにもなった。愚かな頭での直感と思い切った推測による話で、おかしなことも多いに違いない。よろしければ、誤りをご指摘、ご教授ください。
最後になったが、最初にあげたコロナを悪と見なして排除していこうという取り組み方は最終的に末通らない方法だということである。人間が獲得した深い智慧によって、コロナの由来を尋ね、コロナを受け入れ、コロナと共存していく道を探すべきではなかろうか。それがどんな道になるか、たとえ、いかに細い道であろうとも、必ずやそれを探し求めていくことになると思っている。