藤谷純子
                                 
    宗教って何ですか?(三)     藤谷純子
 
 
  梅の花の咲く頃になると、思い出されてくる詩があります。
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    嗚咽(おえつ)の梅             金井  直
   
 木の香も新しいその家に、私は偶然に泊まることになった。婦人は一人で住んでいた。
   その夜、私は、婦人の身上話を聞かされた。無一物からはじめて、町で一、二を争うほどの旅館を持つに至った経緯(いきさつ)と、その財産を夫の名義にしたために、夫の死後、何の労苦も分けなかった夫の弟たちにも財産をとられた口惜しさと、自分が夫の籍に入っていなかったことへの悔恨などが涙ながらに語られた。
   
         (略)
   
  就寝前に、私は入浴した。その時はじめて、鏡がないことに気づいた。鏡がないのは、風呂場だけではない。風呂から上がって、各部屋を丹念に見て回ったが、ついに鏡を発見できなかった。
   
   婦人は自分自身に向かうことを拒んでいる。いや、自己陶酔を拒んでいるのだ。婦人が化粧を必要としなくなったのは、年齢の故ではない。自分を、他者にも自分にも見せずに生きることを悟ったからである。反省の鏡は過去の全てを否定する。そして、現在の自分をも否定せずにはおかない。先が見えている自分の時間を、惜しまねばならぬ。もはや、誰の手にも渡すことのできぬ時間を、密室に閉じ込めておかねばならぬ。
   婦人における現世とは、自分が自分のために自由に使える時間である。かつて見た鏡のなかの映像など何の慰めにもならぬ。まして鏡の向こうの世界など信ずるに足りぬ。
   
  夜の戸をあけると、春が匂うように梅の花がひらいているのがわかる。闇にのまれた白い梅の花が、かすかな窓の明りのとどくあたりで、雨にぬれながら、香を闇の周囲に染みこませている。
   やがて燈を消す。鏡のない部屋の暗黒の中で、私は、婦人のむせび泣きを聞く。
   
               *

  この婦人は、旅館を始末して得たお金によって、自分の老後のために特に台所や浴室、トイレなどを贅沢(ぜいたく)に設(しつらえ)て暮らしているのだが、自分自身を照らし見る鏡を拒んで閉じこもっている。人生を自分だけのものとして、誰にも知られないように、誰からも奪われないように、密室に鍵を掛けて息を潜(ひそ)めて生きている。鏡のないという部屋は闇室である。そこから漏れ聞こえてくる嗚咽の声は、人を怨み世を恨み、身の不幸を嘆く声である。激情に駆られて争ったことも、度々あったであろう。そういう時も過ぎてしまえば、今は虚しさだけが残っているのだろうか。
  他人事ならず、私達はどうであろうか。「これが私です」と認めがたい過去をもっていないだろうか。その過去への愛着と嫌悪から、現在をしっかりと生きてゆけないことになり、未来への明るい意欲も起こって来ないのではなかろうか。「これが私自身です」と、自分の現実と一つになることができるのは、親鸞聖人が『歎異抄』に、「しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけり」と教えて下さっている大悲の鏡がなくてはならない。自分の善し悪しや、優劣に囚われた意識では、自分の現実を引き受けることはできない。他人や世の中のせいにして恨むか、自分の無能を歎くか、冷たい裁きの刃(やいば)を放棄することはできない。
 私達は誰も皆、たまたま与えられたこの自身を、たとえどのようなことをしでかしてしまうとしても、正直に生きて、自身に満足したいという願いを持っている。そして同じいのちを生きるものとして出会う歓びを求めている。この命に多くを勝ち取って誇るよりも、世界を信じて自身を捧げ尽くしていくことを願っているのでないか。
  本音を吐き出すことを許されないいのちの嗚咽に、梅の花はなんと囁いているのだろうか。