藤谷純子
                                 
    宗教って何ですか?(四)     藤谷純子
 
 
  大分は白梅がもう八分咲きくらいになり、紅梅も次々とほころんできています。金沢とは一月の差がありますから、もう少しですね。
「冬来たりなば春遠からじ」、温暖化とはいっても、やはり温かな日差しと柔らかな大地の春の到来はうれしいものです。厳しい冬を越さなければ、桜も満開の花を咲かせられないそうですね。「雪がなければ、花は咲かんぞ」とおっしゃった藤原鉄乗先生の言葉を思い出します。
   
  老ゆる梅 形困(くる)しめ 香(こう)吐けり

 これは信国先生の句です。『大無量寿経』下巻にある言葉を踏まえて詠まれたのだと思います。そこには、この世において清浄な心にて一日一夜善をなすことは、阿弥陀仏国においては百年したことに相当すると説かれています。それ程この人間世界で生きることは、罪深く悩み多く、自ら世を穢しつつ生きるよりないのでしょう。そのことをお経には次のように続けて説かれています。
  
 この間(かん)に悪多くして、自然(じねん)なることあることなし。勤苦(ごんく)して求欲(ぐよく)す。うたた相欺紿(あいごたい)して、心労し形困(くる)しくして、苦を飲み毒を食(くら)う。

(大意)五濁悪世であるこの世間には悪事が多く、いのちの自然な生き方が失われている。人々は欲しいものを手に入れんがために一生懸命苦労しているが、思い通りにはならないので、ますます互いにだまし合ったり裏切ったりして、そのために心は疲れ、姿も醜くゆがんでしまい、まるで苦毒を食べるように生きている。
 
 厳寒の中、折れ曲がり、空洞ができ、苔が生えている古木から一輪一輪開く梅の花は、私達に何を語りかけているのだろうか。厳しい自然環境を怨み歎いているだろうか。人ならば、自分を苦しめる者には憎しみや怒りを抱くところだけれども、清浄な香りを放ちつつ愛らしい花を咲かせている。「花は満ち足りて、この地上をかざる」、これも信国先生の言葉ですが、私は先生によって、賜ったこの身を生きる心について、「衆生の欲生心」と「如来の欲生心」ということを教えていただいた。
  「欲生心」とは、法蔵菩薩の第十八願においては、阿弥陀仏の国に生まれたいと願う心のことだけれど、それを私達のこの身を生きんと欲する心の問題として教えていただいた。「衆生の欲生心」とは、煩悩具足の凡夫の身をもつ私達が、この世を生きる心のことであり、他を押しのけてでも自分の欲求を満足させようとする、意地汚い生き方のことである。生きとし生きるものを平等に生かそうとしている天地の心に背き、他人の考えを受け入れようとしない独善的な生き方である。そこからは不満と怨みと愚痴しかでてこない。それに対して「如来の欲生心」は、どこまでもその衆生の生処(しょうじょ)(身と環境)に随順して、それを否定せず、衆生と一つになって生かそう生かそうとする大悲心です。私達は、そういう大悲心をこの身に受けていることを、「ただ念仏して我が国に帰れ!」という本願の呼び声によって聞きとめることができるようになるのだと思います。私達にもともとそういう清浄な欲生心があったわけではない。如来の至心であり信楽であり欲生心である大悲心の呼びかけ、はたらきかけを受けることによって、少しずつ少しずつ如来の欲生心がこの身にしみ込んで下さり、寒風に姿形を歪めながらも、花を咲かせることができるのです。
  「老ゆる梅 形困しめ 香吐けり」この梅の花によって私達は、老いた梅の木の宿しているみずみずしいいのちに出会い、それに習って、私達の身をも生かさんとしている如来の欲生心を憶い起こして、ここにて生きんと願う者と成らせていただくのだと思います。
  
  回向は如来回向である限り、全て還相回向です。その還相回向が私の身に成就してくださる時、二つのはたらき(相)としてはたらいてくださる。一つには往相、二つには還相。如来の還相回向が私の身に成就したまうとき、それは私の未来を虚空の如く開いてくださる力としてはたらき、同時に、かたじけなくも私どもを現実へと追いやってくださる力としてはたらいてくださる。意は尽くしませんが、このように了解させていただいています。問われ続け、苦しみ続けつつ現実へと身を表現することのほかに、生きるということはないのではないでしょうか。
  これは、出雲路先生からいただいた最後のお手紙です。先生は、ここに生きることを「かたじけなし」といただいてゆかれたのでした。 南無阿弥陀仏