根をもつこと(四) 藤谷純子
なかなか筆が進まないままに月日が過ぎてしまいました。
「諸行無常」とも「難度海」とも言われるこの世を生きる心は、常に我執に振り回されて一喜一憂するばかりで、平常心とか不動心が欲しいなと思ってきました。そんな自分だったからか、岩の窪みにたまたま落とされた種から伸びた根っこが、芽を育もうと岩を抱えて根を伸ばし、何十年もかけて大地に何本もの太い根を下ろしている光景に出会って、深い感動をおぼえたのでした。そして、私にとってのお念仏との出遇いの相をそこに見るような思いがしたのでした。そのたくましい根は、私となっているすべての過去と未来を包んだこの身を、斜面を転がり落ちるよりない身を、身と一つになって抱きかかえてくださっている南無阿弥陀仏のお姿に見えたのでした。 そして、『聖典』に記されている伊蘭林に埋もれている栴檀の根芽(こんげ)の譬えも思い合わされたのでした。
一切衆生、生死の中にありて、念仏の心もまたかくのごとし。ただよく念を繋けて止まざれば、定んで仏前に生ぜん。ひとたび往生を得れば、すなわちよく一切諸悪を改変して大慈悲を成ぜんこと、かの香樹の伊蘭林を改むるがごとし。
そのたくましい根は私から出ているものではない。それは、この身の宿している生老病死、そして深重の煩悩と罪障を生涯離れられない身に着いて離れない南無阿弥陀仏の大慈悲心であるという。私達は、念佛申しつつこの大慈悲心によって、わが身のための大慈悲心のお育てにあずかっていくのであり、この世の苦悩を受け止めてゆける身に育てられていくのだと思う。
この命は、この世に生まれた時から、まず両親に抱きとられて育まれ、親族や友人、故里の自然を大地としてそこに根を下ろして生きてきた。地域社会も家庭や職場も仕事も、この身を託し根を下ろす場所になってくれているのだが、身と心の乖離がおこってくると、身と土の一体感も失われ、相対有限の身を生きる苦悩や不安、孤独や空しさに閉じ込められるようになっていった。しかし、「千載の暗室」といわれる硬く冷たく真っ暗の殻の中に閉じ込められた命には、それを憐れみ悲しみ育まんとする大いなるいのちからの呼びかけが届けられていたのであった。「いのちの大地に根を下ろして、明るい光を求めて生きよ!」その声に促されて痩せた根っこは大地を目指して伸びていく。大地はその命の根っこを迎えようと待ちつづけている。願力自然・願力不思議のはたらいているいのちの世界があったのだ。私の生きる、否、命を生かしている世界にこの身をいただいて生きていたのであった。相対有限の世界を抱いて、それを包んで超えている本願の世界に帰る。そこには、私達のために用意された「弘誓の仏地」があり、そこにしっかりと足を踏みしめて、「真実信心の天」を仰ぐのだと教えていただいた。衆生と共に生きる天地に「南無阿弥陀仏」と帰っていく生活がいつでもどこででも開かれるという安心までもが与えられている。
友の部屋には松本梶丸先生の「草は枯れ 花は凋(しぼ)む げに人は草」という書が掛けられている。人もまた草のいのちを生きているのだ。草木に習って生きていきたい。