藤谷純子
      
    群生海へ(一)
 
 今年の六月十九日から二泊三日の「親鸞聖人ご流罪の地を訪ねる旅 」を、日豊教区の女性門徒でいたしました。朝八時発の飛行機に乗って二時間ほどで新潟空港へ着き、上越市内で昼食をとって、最初に訪れたのが「居多が浜」でした。
  親鸞聖人は『歎異抄』の末尾に添えられているように、「承元の法難」によって四人のお弟子が死罪にされ、法然上人は土佐の国へ、聖人は越後の国に流されることになった。聖人は承元元年三月十六日に京都を発たれ、歩いて親知らずなど嶮難な北陸路を越えられ、糸魚川の東、木浦(このうら)からは船路で、三月二十八日(新暦の五月三日)に居多が浜に上陸したと伝えられている。初めて海岸に立って海に臨んだとき、聖人はどんな思いだったのだろうと偲ばれた。そして今、自分が親鸞聖人を慕ってここに立っていることの遠き宿縁の不思議を感ぜずにはいられなかった。     まず八角の見真堂にお参りをし、お堂建立を発願し尽力された古海香雲師のご子息である法雲師のお話を聞かせていただいた。しきりにウグイスがホーホケキョと大きな声で鳴いている。記念堂でお茶をいただいてから散策をした。境内にはいくつもの石碑が建っていた。  
 その一つは『御伝鈔』の「大師聖人源空 もし流刑に処せられたまわずは、われまた配所に赴かんや、もしわれ配所に赴かずは、何によりてか辺鄙の群類を化せん、これなお師教の恩致(おんち)なり」という御文である。辺鄙の群類の末裔である私のために聖人はここに来られたのかと、一つに繋がれるこの地であったのだった。
 そこに「念仏発祥之地  大栄  九十六老」と書かれている碑があり、『流罪の親鸞聖人』という冊子にはそのエピソードが書かれていました。上越市に住む貝川正治氏が「居多が浜は念仏発祥の地だと思いますが、いかがでしょうか」と大栄師に問うたところ、二時間も立ってから「貝川君、君の質問をずっと考えていたのだが、居多が浜は念仏発祥の地に間違いない。その理由は、この地で初めて民衆の生活の場での救いの念仏になったからです」と答えられ、快く揮毫してくださったそうです。
 親鸞聖人にとって、このご流罪がなかったならば、私達が味わえるような教えになっていたでしょうか。『唯信鈔文意』に、法蔵菩薩の誓願には貧しい者と富める者とを選ばず、智慧ある者と智慧なき者とを選ばず、よく学ぶ者と戒を持つ者とを選ばず、戒を破り罪の根深き者も選ばないとあり、その「罪根深」については、「十悪五逆の悪人、謗法闡提の罪人、おおよそ善根すくなきもの、悪業おおきもの、善心あさきもの、悪心ふかきもの、かようのあさましき、さまざまのつみふかきひとを、「深」という。ふかしということばなり。すべて、よきひと、あしきひと、とうときひと、いやしきひとを、無碍光仏の御ちかいには、きらわず、えらばれず、これをみちびきたもうをさきとし、むねとするなり」(聖典552頁)と丁寧に説いてくださっています。『教行信証』には236頁に「大信海」として説かれてもいます。      海。春の海、冬の海、静かな海、荒れ狂う海。
山は大きさが知れるけれど海は深さも広さも知ることは出来ない。海はすべての川を受け容れて、しかも同じ海の味に転じてしまう。親鸞聖人はこういう光景を日々眺めながら、阿弥陀仏の摂取不捨の真実にいよいよ頷かれたのではなかったか。そこで、初めて素っ裸で宿業の身を生きる人々に出会われたのではなかったか。