藤谷純子
      
    群生海へ(二)
 
 
    親鸞聖人の書物には「群生海」という言葉が多く使われている。善導大師や法然上人にも、その言葉があるのかどうか知らないのだが、居多ヶ浜(こたがはま)に立ったときに、すぐに念頭に浮かんだのが「群生海」という言葉だった。
 「群生海」という言葉には、忘れられない思い出があります。私が大谷専修学院生だった当時(昭和46年)、信国先生のお母さまは90才を過ぎていて、大分の宇佐のお寺に住んでおられたのでてした。夏休みにお母さんと過ごされた時のことを、先生は二学期の始業式の時に、次のように話してくださいました。
  
    我が家へ着いて母の部屋へ行ったとき、母は何か食べ物を頬ばっていた。その顔色は、この前会ったときより血色も良く、これならと私は安堵感を覚えたのです。
     ところがその母は、私に対し「おまえは誰だ?」と言うのです。「私の母は・・・、父は・・・、私は・・・」、そこで「おまえは誰だ?」と言うのです。母は縁あって信国家へ嫁いで、私という子供を産んだことを全く忘れているのです。私はギョッとしたと同時に、ふと淋しさに襲われた。「私はあんたの子供だよ」と言っても解らない。そして母は三日程、私が書斎に居るのをそっとのぞき込んでは不思議な顔をして去るということが続いた。その後で私の部屋へやってきた時、母は初めて私に気づき、にやっと笑ったんですね。それで私もやっと解ってくれたかと嬉しく思った。しかしその母が、しばらくして書斎でやはり物を書いたり読書をしたりしている私の所へ来て、机上の本を庭へ放り投げたり、テーブル掛けをひっくり返してしまったり狂乱状態なんですね。そして目前に死を控えて「どおせ早く死にたい」とか、同時に一方では生への愛着に迷うている。
 そうした母に対して私はどうしても母を受け入れられなかった。私は、もっとこうあって欲しいという私の理想で母を私有化しておったのです。それで私もそれを悩ましく思っていた。そういう時ふと私は「群生海」という親鸞聖人のお言葉を思い起こした。母が私に教えてくれた。私としては生まれて初めて母から教わったと言えるのです。母は思い上がった私に対して、人間の生まれたままの姿、煩悩具足の凡夫の姿に帰って見せてくれたのです。『歎異抄』第9章でいえば、「しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり」とある、その「かくのごときのわれら」というのが『教行信証』によく証人が使われる『群生海』なのですね。その『群生海』においてだけ、私は母と出会うことになる。初めて出会った。初めて母が私の中に定着したのです。それで私は母の手を取ってお内仏の前に坐わり、おつとめさせてもらいました。しかし母は、何やらそさくさと立ち退いてしまうという、そんなことが実はありました。   
     「かくのごときのわれら」、その「われら」というところに帰るときに、母はいつまでも私と共に生きておるということを感じたのであります。
 
 最後は言葉にならずに俯(うつむ)いてしまわれました。懺悔(さんげ)する先生のお姿、また母親の生死の迷いをどうしてはらったものかと迷っておられる仏様のお姿も拝見させていただいたと、その時思いました。  これが、「群生海」という言葉と共に甦ってくるお話です。