藤谷純子
                                 
    宗教って何ですか?(二)     藤谷純子
 

  かけがえのない自分の人生のやり直しを願いながら、はるばる一人美しい雪国にやってきたものの勉強にも身が入らず、けだるくひもじくむなしくさびしい日々が続いていた。唯一、能楽の世界に描きだされている人間の罪業性と救いの物語、そしてその舞台の美しさに心惹かれるものを感じた。しかし私はオウムの人々のように「汚れた世の中を変えるんだ、人を救いたい」というような視野はなく、自分に執われていた。生まれてより、すべて他に育まれ支えられて生きてきたのに、いつのまにか他が見えなくなって、自分で自分を担って持て余し、いき詰まってしまっていた。
  今になって思えば、自分で生きておりながらその自分を嫌って見捨てようとするなど、なんて勝手な無責任な在り方だろうとわかるのだが、真面目に善き生き方を求めていると思っていた。ある時、それはルオーの本を見ていた時、ルオーはステンドグラスの工場によく通っては、「純粋というガラスで傷を負っていた」という文にハッとしたことがあった。自身を傷つけることが純粋と言えるのか?と問われた。私は自分に迷っていたのだった。現実の自分を「これが私です」と認めたくなかった。こんな自分を生きたくなかった。生きている自身よりも、真・善・美なるものを求めている心を自己として、自身を裁(さば)き蔑(さげす)み逃げてしまおうとする。そういう自己矛盾を生きている苦しさだった。
 しかしこの身には久遠劫来といういのちの歴史が大地となっていて、そこに根を下ろしてこそ生きている自身だった。なぜその身を厭(いと)うのかといえば、久遠劫来の「罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫の身」だからである。そんな重い身を荷負って生きる智慧も愛も力も持ち合わせていないのが私自身の正体であるから。
  知らない土地で唯一親切にしてくださった人がクリスチャンだったということで、その人の通っていた教会を訪ねたことがありました。私も宗教に救いを求めたのでした。「皆さん、今日は新しい姉妹がおいでになりました」、この言葉に違和感があって、すぐに行かなくなりました。   
   出雲路先生にお遇いしてまもなく訊(たず)ねたのが、「先生、宗教って何ですか?」という問でした。先生は、「山村暮鳥の詩に、
      宗教などというものはもとよりないのだ 
      ひょろりと天をさした一本の紫苑よ
という詩がありますよ」とおっしゃいました。紫苑は母の好きな花でした。     
   また信国先生は「あなたの生き方は高嶺に造花を咲かそうとする在り方だ。それはどんなに美しくても造花ですよ。自然の花は大地にしっかりと根を下ろしてこそ花開いているでしょう」とおっしゃった。「花無心」と言われる花の生を、自然のしずかさを、どんなに憧れてきただろう。憧れれば憧れるほど、そうでない自分を嫌ってきた。「南無仏の 御名なかりせば 現そ身の ただ生き生くる ことあるべしや」「お念仏申すところから、新しい生活が始まりますよ」と先生はおっしゃった。私よりも私を知っているものがある、私よりも私を愛しているものがあると感じた。新しい生活! これを求めてきたのだった。お念仏申すところからそれは開かれるのか、夜明けの近いことを感じていたわが身であった。       
  申せなかったお念仏を申しつつ、新しい聞法生活が始まった。聞法を成り立たせて下さったのは、よき師との出遇いであり、その真実信心より語られる言葉であった。「満足大悲の人」の語られる「実語」によって、私達は誤らずに、深く自身を知り、自身となって仏道を歩めるのだと思います。