藤谷純子
       
     不動のひと      藤谷純子

 高島千代子さんの思い出をたどれば、五十年も昔にさかのぼる。私が「崇信」の宛名を金沢大学構内にある社会教育研究室で印刷していたとき、スラッとした体型で長い髪をクルクルっと巻き上げて頭のてっぺんに止めていた、そんな颯爽としたお姿にお会いしました。それは「崇信」の発行間もない頃だったと思います。道林寺の一室にあった学舎は、「こけし、こけし」(虚仮子)と高島さんを可愛がられたという秦菊枝さんを亡くしたばかりの頃であったからか、陰気な雰囲気だった。黄色に色あせたカーテンを作り替えましょうかと言った時、「これは雪ちゃんの形見やさけ、いいがや」とおっしゃった。雪子さんというのは、児玉先生の妹さんで、自殺をされたのではなかったかと思う。 あれから五十年も経っている。いつの頃からか、私は「ただいま」と学舎に帰るようになり、そして高島さんの自然のお念仏を聞くようになった。高島さんはご自分を「崇信学舎の留守番や」とおっしゃっていた。最近は物忘れも多くなり、久さんがひどく心配しておられたが、「私はなぁんも心配することないがや」と笑っておられた。「崇信」のことは宮森さんらに任せたし、自分の身のことは全部久ちゃんに任せとるといった感じだった。そして「私も忘れることが多くなってね」と歎くと、「忘れた方が軽うなっていいぞ」という返事が返ってきて、ちょっとまだ同感できない私であった。だが三月末の同人学習会の後で十人位で学舎に寄った折に、「母の歌」や「におい草」を歌うことになって、私が歌詞に詰まった時、障子の向こうから高島さんが歌ってくださった。高島さんはそのように、いつでも付かず離れず私達と共にある人であった。それに甘えて私は今日まで崇信学舎の一人にしていただいてきたのでした。 最近机の引き出しの中から、二十年も前の高島さんにいただいた手紙を見つけました。ご自分の思いなどめったに書かれないかたでしたので保管していたのでしょう。ここに掲載させていただきます。     合掌
 

  大変ご無沙汰致しておりますが、皆様お元気でお過ごしでしょうか。崇信学舎は今、白いあじさい一りんと、あとは雪の下の小花、どくだみの花盛りです。今朝は妹がアメリカシロヒトリにやられたヒメリンゴの枝を刈り取ってゴミ袋にまとめ、町内のゴミ集めに出していました。相変わらずお隣のニャンコ・ニャンキチ達がトイレ代わりに来て、シッコ・うんちあちこちに顕在、はえもにぎやかです。
  長年「十方衆生よ」と呼びかけられているのだと聞かされてきましたが、最近「仏教徒である人もない人も、神を信ずる人も信じない人も」という言葉が耳に止まり、やっと私も十方衆生の一人なんだと実感させられました。その「仏教徒でない人」「神を信じない人」というところに私が納得したということらしいです。つまりどくだみさんやニャンコ、はえ、アメリカシロヒトリさんもみんな、というより私がそういうみんなの仲間入りしたということなんでしょう。だから清澤先生の「自己とは何ぞや、これ人生の根本問題なり」で、私とはアメリカシロヒトリと同じ者で、成虫にも成らぬうちに葉っぱもろとも刈り取られて火中にされても当然、何の文句もございません者の一人なのです。また、虫がついたために若葉の間に刈り取られて火にくべられるヒメリンゴの枝が私でもあることに、何の文句もないはずなのでした。
  だんだん集中力も低下して記憶力も激減し、老化を恨む気持よりも先に、いつまで人様の仕事を横取りして邪魔しとるがやと。まあまあそうも早々と自分から引っ込まんと、流れに任せて今できることをさせて貰おうという気持ちにもなっているところです。
  出雲路先生七周会記念冊子、宮森忠利様からお預かりしましたので、遅くなりましたが贈呈申し上げます。
  三月三十日学舎創立九十年記念に、浅田様が念願しておられました中本昌年師の『いのちの鼓動』も出版されましたので、浅田様がご讃嘆遊ばされていた青葉若葉の相念洞諸兄姉へ、ご拝読賜りたく、これも一冊お贈りさせていただきました。
  十方衆生に開かれている場所、皆様の帰るところより    なむあみだぶつ なむあみだぶつ
    六月十九日朝 ごみの日         こけし拝

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いつも そこに いないような自分になって
いつも そこに おられた 不動のひと
高島さん 軽やかなお浄土への 旅立ち
おめでとう ありがとう なむあみだぶつ