藤谷純子
                                        
  
   寺の初心        藤谷純子
 

  私達の日豊教区坊守会は、自分たちの聞法のために、教区内十五組が寺院数の多少にかかわらず年六回の聞法・学習ができるように、学習会費を一度プールして、それを平等に十五組に分配するという方法で、六十一年間も歩んできました。坊守は何か特別な資格のいる役職ではなく、住職の配偶者であれば自動的にその座につくことになるので、聞法の場におりながら、なかなかわが事として聞法ができないという現実があり、先輩の坊守さん達が知恵をしぼって、教区の全寺院の坊守の聞法の機会を保証したのです。自分だけが聞ければいいというような狭い了見を超えて考えられたことが素晴らしいと思います。ところがこの度、今の時代状況から勘案して、いよいよ寺院数・門徒数が減少し、本山の財政が危ないということから、九州を一教区にするという大胆な教区改編によって、教区坊守学習会も今回が最終回となりました。その最終回において、中野良俊先生の「真宗寺院のはじまり」という文章を、講師の酒井義一先生から聞かせていただきました。
                                
      真宗寺院の始まり

   一つの里に念仏の教えが聞こえてきた。そして、それまで仏法からはじかれていた民衆一人一人に自ら歩むことのできる仏道が、はじめて開かれた。その時民衆は感激しただろう、うれしかっただろう。そしてその時思ったはずだ。この大切な教えを一人で聞くのはもったいない、一人でも多くの人と一緒に聞いていきたい。そこにご本尊を迎え、念仏の道場ができてきた。そしてそこに留守番をして、ご本尊のお給仕をする人が必要になった。多くの人達は食べていくのに精一杯で、そこに住んでご本尊のお給仕をしている暇がない。そこで里の中の一人の人を選んで、そのことを託した。あなたはここに住んで下さい。あなたの生活は私達が守る。だからあなたは、ここでご本尊のお給仕をして、仏法の勉強をしてほしい。そしてその学んだことを、私達に伝えてほしい。これが、真宗寺院の始まりだった。
 
   私は高島さんのことを思い出した。「私は留守番や」と言って、秦さんから呼ばれた「虚仮子」という名のごとく自分を空しくして、来る者を拒まず、去る者を追わず、崇信学舎を私物化しなかった。それどころか全生活を捧げて守って下さった。出雲路先生が「人は欲求が満たされて満足するのじゃない、自分を捧げられるものに出遇って満足するんだ」とおっしゃっていたことを思い出しました。高島さんが熱中症で亡くなったと聞いた時、本や書類に埋まって学舎と一つに溶けてしまったように思いました。この崇信学舎に、聞法道場・寺の原型を見るように思います
   私達の寺では、来月に親鸞聖人と恵信尼さまの七百五十回御遠忌を厳修する運びとなっている。 
 今回は親鸞聖人の念仏の教えを聞こうという一点にしぼってと思っていたのだが、やはり古びている仏具の修復もすることになった。瓔珞や上卓、お幕障子を外したところ、内陣が広く間近に感じ、御軸の絵姿もはっきり見えるようになり、「この方がいいねえ」と言い合ったりしました。寺になくてならないものは、法を説く仏、説かれる法、法を求める人々という三宝でありましょう。これが最も素朴で十分な姿であると思います。
  家の宗教ということで、自ら選んだわけではないのに門徒としての役割を要請される人がいよいよ多くなっていく時代が来ています。これまでの寺の殻に閉じこもりがちの私には、そのような人々との出遇いが殻の外に出るチャンスなのだと思います。その勇気をくれるのは、寺の原点・初心を忘れないことだと思いました。それは、よき人との出遇いであり、法蔵菩薩の本願にふれた感動であると思います。
  そろそろ選手交代という年になって初心に呼び返されるとは、なかなか容易ならぬことであります。