藤谷純子

     サトちゃんの往生                                          

 今日は、サトちゃんのお葬式だった。うちへ来て用事を済ませたサトちゃんは、帰り道で交通事故に遭い、救急車で運ばれて四時間足らずで息をひきとったのだった。突然のことで皆びっくりしてしまった。名古屋から駆けつけた弟さんが喪主をつとめてくれて、ささやかだけど、皆の涙でお別れをしたいいお葬式だった。弟さんは「姉は、皆さんからお叱りや励ましをいただきながら、今日まで生きることができました。本当に有り難うございました」とお礼の言葉を述べられました。「かわいがっていただいて、とは言わなかったね」と帰り道に友と話したことだった。
  サトちゃんは七十歳、両親に先立たれてからは一人で犬2匹猫3~4匹と暮らしていた。親はサトちゃんのために家をあてがい、国民年金のほかにも貯金を遺してくれていた。お金が欲しくても、彼女にできる仕事は少なく、ワラビや芹を採ったり、どくだみを乾燥してふれあい市場に出したり、ミカンちぎりに雇われることもあった。こういう仕事をするのは彼女の生き甲斐だった。しかし最近は、子宮摘出の手術や骨折したりが続いて働けなくなって、週に二回ずつのデイサービスとお料理やお掃除のヘルパー支援を受けて、どうにか暮らしていた。
 私だってそうなのだが、意地が強くて欲が深い、人の言うことが聞けない、そして怒られるのが怖くて、ウソをつく。それでも人なつこくて、優しい人に甘えたがった。自閉的で相手の気持ちをくむことが苦手だったから、両親からの愛情も受け止められなかったのだろう。両親の仕事が忙しいので、小さい時からお婆ちゃんに預けられていたという。親が恋しくて、遠い道のりを一人歩いて家に辿り着いたけれど、どうしても入りきれなかったと、悔し涙を流したこともある。身に刻んできた親への不満を、ものすごい形相で吐き出すこともあった。サトちゃんの顔にはどんなに深いしわが多かったことか。言葉での交感ができにくかったために、身に刻まれた苦労の跡なのだと思う。
 それなのに、彼女を本当に友として迎えることができない私だった。会えば何か小言や文句を言い、説教じみた言葉が出てしまう。普通なら言わない言葉をサトちゃんにはぶつけていた、その差別心の恐ろしさ。親切心の乏しい自分、物を惜しむ自分、意地悪な自分をよくよく知らされた。「四海の内みな兄弟」とか「浄土」とか聞法しながら、穢土を好んで穢土を作っていく自分、誹謗正法のこの私を知らせんと会いに来て下さった大事な人だったのだと、死という厳しい現実を通してようやくサトちゃんが私の中に収まった。
  花の好きだったサトちゃんが、みんなからの豪華な花に飾られてお浄土に還っていった。お浄土の清らかさ、広やかさ、尊さを教えてくれたサトちゃんは、お浄土からの還相の菩薩さまだったと、今は思える。ご苦労さま、ありがとう、南無阿弥陀仏