藤谷純子

      「ただ念仏して」の仰せに応える我とは(二)                    藤谷純子

  先月記したFさんのお葬儀が今行われている。一月以上経って発見されたので先に火葬をして、昨夜はひっそりとお通夜が営まれた。長い間不眠症に苦しんで、これ以上生きていてもご主人のお世話もできない、かえって迷惑をかけるだけという苦悩に死を決意してしまったのだろうか。ふんわりとした天真爛漫さも湛えていて、皆に明るい笑いを与えてくれたりもした。でも、人には見せない心の闇を一人で抱えておられたのですね。この地へ来られて二十年、一緒にお参りをしながらもすれちがってしまったのでした。南無阿弥陀仏
 
  前に「サトちゃんの往生」に書かせて貰ったサトちゃんと私の三十年近くにわたる交際から問われてくることがあった。
   
  人を尊敬せずして
    その人と交わりを続けていることは
    自らを侮辱することである
 
これは、本山から出ている「ひめくり法語」に載せられている暁烏先生の言葉です。この言葉から「他人を侮辱することは、実は自分を侮辱していることになるのだよ。おまえは、そんな侮辱することのできない自己に出遇っているか? 他人を敬えないおまえは、本当に敬ってつかえるべき自己を見失っているのではないか?」と問いかけられた。その通りだった。
 サトちゃんに向かって私がとった態度、かけた言葉、どれをとっても冷たさに裏打ちされていた。聞法会の時も「感想は?」などと聞いても、彼女は石ころのように黙ってしまって、自分の思いを自ら話すことはほとんどなかったのだった。三十年間ずっと、それは変わらなかった。サトちゃんがお寺に来ていたのは、皆と一緒におりたかったから。おやつやご飯をいただいたり、歌を歌ったり、家に一人でいるより良かったのだ。人一倍人の親切に餓えていたのだった。それを知りつつ、サトちゃんの喜ぶことをしてあげたくない私だった。そんな私のいる寺に、交通事故に遭う直前まで来ていたサトちゃんだった。「あなたの大事にしなければならないあなた自身、お念仏申して下さいと呼ばれているあなた自身に、なってくださいよ!」と言ってくれていたサトちゃんのあの姿なのでした。
  最近このような詩に出会いました。詩の中にサトちゃんがいて、今も虚しい言葉を吐いている私をいさめているようだ。
 
       もし言葉が
                          谷川俊太郎

    黙っていた方がいいのだ
    もし言葉が
    一つの小石の沈黙を
    忘れている位なら
    その沈黙の
    友情と敵意とを
    慣れた舌で
    ごたまぜにする位なら
  黙っていた方がいいのだ
    一つの言葉の中に
  戦いを見ぬ位なら     
    祭とそして
    死を聞かぬ位なら
    黙っていた方がいいのだ
    もし言葉が
    言葉を超えたものに
  自らを捧げぬ位なら
    常により深い静けさのために
    歌おうとせぬ位なら

           (『空の青さをみつめていると』より)