新型コロナウイルスから見えてくる人間社会
藤谷純子
東日本大震災以来だろうか、毎日感染者や死者の数を確認しながら、三ヶ月以上を過ごしてきました。クラスターやパンデミック、ロックダウンなど耳慣れない言葉も日常語になった。三密にステイホーム、テレワーク、町から駅から人影が消えた映像に驚きました。宇佐の地でも、マスクや消毒液が店から消え、デマによる買い占めが今も続いています。平和ぼけの日本が、「ダイジョブダ-」の志村けんさんの訃報から一気に本気になり、危機感が広がりました。
先日私達は、念仏者で医者である田畑正久先生をお招きして、まず新型コロナウイルスとはどういうものなのか、政府の三密やマスク、ステイホームなどの自粛対策でいいのか、仏教者としてどのように対応していくべきかなどについてお聞きする機会をもちました。最後に「新型コロナとはどういうものと受け止めていますか?」との問に、田畑先生は「遠い親戚かな―」と、首をかしげ微苦笑しながらおっしゃいました。
「遠い親戚」・・・遠い過去世からの因縁によって人類の歴史と共に生きてきたもの。私などついこの頃こそ、放射能や細菌、ウイルスなど目には見えないものが、この命においてはそれらと常にせめぎ合い、何とか折り合いを付けながら、今日まで生存がたもたれてきたのだということが、いくらか自覚されるようになった。グローバルどころか宇宙的規模での無量の関係性のなかに、私達の生老病死があることを思い知らされている。
ところで、この地球や宇宙までも、世界は人間のためにあると考える人間中心の傲慢な考え方、それを正当化させている経済優先、科学万能の考え方によって、命を維持してくれている大地を忘れ、それに唾を吐きかけ、命を私物化して握りしめはしても、畏敬の念を懐くことができなくなっている私達には、新型コロナは恐るべき悪魔のように見えるだろう。太陽をかたどったコロナに悪魔の顔を描いて、恐怖をあおっている。だから感染者は同情されるよりも忌み嫌われる。かつて、結核やハンセン病患者に石を投げつけて排除したように。
生老病死を畏れて生にしがみついている私達は、人間に生まれて生きていることを、今本当に喜べているだろうか?自身を生かしてくれている天地や社会や人々に、ご恩を感じているだろうか?それらが欠けているための不安や不満や恐怖が、新型コロナへの敵対感情を増幅させてはいないだろうか?
新型コロナウイルスを縁としてどんな世界が創り出されていくのか。宇宙から見て唯一青く光っているという、美しい生命体である地球を壊していくのは、実は私達では?