藤谷純子
「ただ念仏して」の仰せに応える我とは(四)  
 
                                                    藤谷純子
 
  前回犬のことを書かせてもらいましたが、むかし池山栄吉先生の本を読んでいた時、「女性は犬が好きでなければいけない」という言葉にひっかかりました。私は幼い時から猫と一緒に暮らしていましたが、犬と遊んだりしたことはなかったので怖さを感じていましたから。それに、寒い日の鴨川に投げられたボールをうれしそうにくわえてきて主人に渡している光景を見て、犬ってどうして自分を忘れて主人の言いつけに従えるんだろうなと思っていたので。
  池山先生はそういう犬の性質を愛していたのでしょう。先生のお家にはワハマンという名の犬がいて、先生が頭に手を載せてやると、うっとりと瞑想状態に入るのだと聞いたことがあった。そんな犬と飼い主との一体感を喜ばれたのだと思う。先生のお話の中で忘れられないのはやはり犬のお話で、ドイツ軍が破竹の勢いでベルギー領のある町を占領した時、住民に置き去りにされた犬たちのことがフランスの新聞に載っていたのだという。犬たちは皆、道ばたにしゃがんで毎日毎日悲しげな顔つきで主人の帰りを待っていたのだった。人影が遠くに見えると、彼らは一斉に耳を立て目を見開いて鼻を突き出して匂いをかごうとする。主人を見つけた犬は一散に飛んでゆき、主人の側に行き着いた彼はのど一杯に歓喜の叫びを上げる。ほかの犬たちは悲痛な遠吠えを上げて、また元のところに坐って待っているのだという。この記事を読んで、  
 
私はこの記事を初めて読んだとき、深い深い感動に打たれた。二六時中(しょっちゅう)頭を一方に向けて主人の帰りを待っている犬の心持ちを推しはかると、いじらしくていじらしくてたまらなかった。そのうちふと思いついたのが、信仰を求める人に、この犬のような一途の期待があろうなら、という考えであった。彼岸への憧憬(あこがれ)の矢、こうした心がまえは、獲信、時節到来の準備として、あって欲しい、否、なくてはならないものなのである。(『仏と人』)
 
と先生は記している。
 犬は、飼われた家で誰が主人であるか解るのだと聞いたことがある。そして一番下よりもその上を自分の位置と思うそうである。犬にも上下の分別があるのだろうか、それよりも犬には主人を獲た喜びと安心が与えられたのだ。そして犬たちには、他との比較に苦しむ自我がないから、自分を嫌がったりする自己矛盾の苦しみもない。自身をそのまま生きる事に満足している。そして主人に自身を捧げていくことに自由の喜びを獲ているようだ。

それ菩薩は仏に帰す。孝子(こうし)の父母(ぶも)に帰し、忠臣の君后に帰して、動静己(おのれ)にあらず、出没(しゅつもつ)必ず由(ゆえ)あるが如し。

これは『真宗聖典』(二〇三頁)にある曇鸞大師の言葉であり、「自分の思い通りをするよりも、自分を捧げていくものに出遇うことを、人は願っているのではないか」と言われた出雲路先生の言葉も思い出される。
 「ただ念仏して、弥陀に助けられまいらすべし」というよきひとの仰せを受け入れて「ナンマンダブツ」と申す我はどのような我なのであろうか。それは、相対有限な身を生きる者としての苦悩や罪障から自由になることはできないけれども、いつでもこの身心を帰託することのできる本願の大地にしっかりと根を下ろし、真実信の天を仰いで、またぼつぼつと道を歩み始める我である。『教行信証』の総序の文に
 
穢(え)を捨て浄(じょう)を欣(ねが)い、行(ぎょう)に迷(まど)い信に惑(まど)い、心昏(くら)く識(さとり)寡(すく)なく、悪重く障(さわり)多きもの、特(こと)に如来の発遣(はっけん)を仰ぎ、必ず最勝の直道(じきどう)に帰して、専らこの行に奉(つか)え、ただこの信を崇(あが)めよ。

と、いちいち「おまえのことだよ」と押さえながら呼びかけて下さっている親鸞聖人のお言葉に、本願招喚の勅命を聞く我であろう。