藤谷純子

故里茨城の遺跡を訪ねて

         藤谷 純子

 この度「茨城親鸞の会」四〇年の歩みに終止符を打つというので、参加させていただきました。最終回といっても何も特別なことはなくて、いつものように『歎異抄』の後序について皆で談合をして、記念写真を撮って散会となりました。会員の皆さんは高齢となって外出が難しくなったり、病気入院や介護施設に入所したりで、参会者が減少したということでした。私は会報の「じねん」を通して、茨城の地にもいろいろな念仏者の方がおられるのを知らされておりました。
 会が終わった後、前もって川島さんにお願いしてあった親鸞聖人の御旧跡をご案内していただくことができました。まず弁円さん・明法坊が山伏時代に修験道の修行をしたところやお墓のある法専寺。本堂にお参りさせていただいたが、何代か無住だった所を修理し掃除をして継いでいるというお話だった。広い関東平野の一角に寂かに息づいているという印象を受けた。 次に河和田の唯円坊ゆかりの報仏寺へ。近くに唯円坊が開き住んでいた道場跡があり、今は「道場池(心字池)」と呼ばれる池だけが残っている。そこには近角常観先生の碑文が建てられていて、「大徳の念力千載不磨と謂うべし。こいねがわくば四海の兄弟、同一信心を獲得し以て念仏成仏是真宗の祖意にかなわんことを」と結ばれている。報仏寺は広い境内のある立派なお寺でした。
 翌日も朝から、「年たけて また越ゆべしと思いきや いのちなりけり・・・」という和歌のような、四十数年前にこの上曽(うわそ)峠を越えて石岡まで聞法に通っていた峠道を再び通ったのは驚きだった。身に受けた記憶は身が思い出すのだと思った。そして「弁円懺悔の像」や「うらみなしの池」のある大覚寺に参拝し、弁円が親鸞聖人を襲おうとした板敷山を護摩壇跡まで歩いてみた。法専寺から板敷山そして稲田と、かなりの距離を往来して度々上人の命を狙った山道である。「山も山 道も昔にかわらねど かわりはてたる わが心かな」と彫られた碑も建っていた。この明法坊の往生の報せに聖人の喜びを記したご消息が残っている。

明法御坊の往生のこと、おどろきもうすべきにはあらねども、かえすがえすうれしうそうろう。鹿島(かしま)・行方(なめかた)・奥郡(おうぐん)、かようの往生ねがわせたまうひとびとの、みなの御よ ろこびにてそうろう。

と、一度の回心に貫かれて、生死を越える念仏往生の道が実証されたことを共に喜んでおられる。
 そこから稲田西念寺に向かい、参道の中程に、いつも扉を開けて灯りをともしていた小さな庵に初めてお参りさせていただいた。親鸞聖人はこんな草庵に住んでおられたのだろうと思われた。川島さんが先頃ここの報恩講さんに、ご法話をされたと聞いてまた驚いてしまった。この草庵を娘さんも息子さんも継いで護りたいと言っていると、現住職・坊守さんのお話を聞いて、私は賢しくわが身を省みずにはおられなかった。
 それから恵信尼さまのお墓に案内していただいた。恵信尼消息の発見によって、稲田で亡くなったという説は否定されても、恵信尼さまを慕い、ご苦労を謝すところとして祀られたのか、今ではどなたか尊い方のお墓として、地域の人々によってきれいに護られているようだった。
 だいぶ時間が経ってしまったが、高田の専修寺へ向かった。距離があるので日が傾き、着いた時にはどこも閉じられていて、お参りすることはできなかったが、もとは真壁の領主であった真仏上人、その子顕智上人のお墓にお参りさせていただいた。帰路はすっかり暗くなってしまったが、はるか遠くには残照に映える富士山が見え、近くには黒々と筑波山が聳えている。これが、親鸞聖人ましましたわが故里にての二日間であった。

 ご旧跡寺院ということでは、私の胸にしこりとなっている一言がある。 先輩に連れられて、初めて安田先生の相応学舎を訪ね、私が茨城県笠間の生まれだと紹介された時、即座に先生は、「関東人はガサツもんです。親鸞聖人の遺跡を観光寺院にしてしまった」と怒ったようにおっしゃった。その時いたたまれない気持ちで坐っていた私だったが、その後その通りの現実を知らされたことが何度かありました。しかし現に寺院に暮らし坊守となって三十余年、一方には常に御本尊・南無阿弥陀仏に見つめられ、もう一方にご門徒の眼差しを感じつつ、今も居心地の悪さを感じている。それは、お布施で生活していながらそれに応えていないという心のやましさが解けないままでいるということだと思う。寺におれば、仕事はいくらでもあって、日々の流れの速さに飲み込まれてしまう暮らしが続いている。

 南無阿弥陀仏