藤谷純子

宇佐便り(71)        藤谷純子

 二月三日は出雲路先生のご命日でした。献体された先生に対して富美子奥様が詠まれた句「また骨を砕きに還る春を待つ」が脳裏を往来して止やみませんでした。それで今月は、一九九八年(先生往生の前年)の文を写します。

 (以下、出雲路先生のご文章です)

 

      年頭にしんらんさんを憶う

  私は子供の頃からよく病気をしました。しかしいつの場合でも、治るに決まっているという気楽な思いでいたように思います。20歳の時に肺結核と診断された時にも、50を過ぎて再発した時もそうでした。ですから、自分の病気を見つめるということも、病んでいる自分自身を見つめるということも、ほとんどしないで来たように思います。

 自分の身についてさえそうですから、大病を病んでいる私に心を傷める母や父や妻や子をはじめとする周囲の人達の心にもほとんど気づかないで、気まま勝手な養生生活をさせてもらい、そして医師をはじめ多くの方々のおかげで、自分の気楽な思いの通りに治っていました。

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  しかし三年前に約10ヶ月慢性の肺炎で入院した時、さまざまな病気、さまざまな境遇の病人やその家族の方々に接して、自分の気楽さ身勝手さが次第に照らされ見えはじめたように思います。入院当初あれこれと親切に身のまわりのことを教えてくださった隣のベットのおじいさんは、それから約一ヶ月して急に衰弱がひどくなり、間もなく亡くなりました。同室の方、洗面所や廊下で言葉を交わした方が何人も亡くなっていかれました。そうしたご病人が日に日に衰弱が深まる中、医師や看護婦の指示に従って懸命に養生される姿や、その家族の方が毎日のように夕方会社が終わると立寄られ、何かと世話をしたり、さりげなく会話を交わして力づけていられる姿にも接しました。お百姓さん、漁師さん、会社員、板前さん、個人経営の工具店のご主人、職業も年齢もさまざまでしたが、みんな特別室など思いもよらぬという人々でした。経済的に随分苦しそうな方、全く身寄りのない中でただ一人懸命に養生していられる方もありました。中には、やけくそを起こして暴れまわり、疲れ切った所へ来てくれて、何時間も側にいて辛抱強く訴えを聞いてくれ力づけてくれた看護婦さんの心に打たれて、気を取直して養生に励まれるようになった方もありました。

 そうした方々に接しているうちに、これまで法話をするたびに繰返し繰返し「ありのままを照らして下さる如来の光明・智慧に照らし破られてありのままの自分に帰らしめられるのです。そして、今、ここに賜ったいのちを尽くさせていただくのです」と申してきた私の言葉の根の浅さ、一人ひとりの根にある深い怒りや悲しみにほとんど気づかず、その人の表面のみを見て付き合ってきた恥かしさ、そして自分の生活の身勝手さに、かすかにかすかにではありますが、気づき始めたように思います。

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 こうした私に、昨年初夏、ある方から、四月に東本願寺出版部が出して下さった私の講話『人間その苦悩と解決』に対して、「しいたげられている人、苦しみに打ちひしがれている人の、訴えるすべのない怒り悲しみのわからない者の語る仏法は、仏法であるようで仏法でない」という意味の、まことに厳しいご批判をいただきました。

 まことにその通りでございます。 

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  約十年前、高史明さんに初めてお会いした時、高さんは、親鸞聖人をしんらんさんと申されました。そのお言葉の言いようのない温かさが、今も私の身のうちに残っています。

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 しんらんさんは、84歳で長男善鸞を勘当しなければならない苦しい境遇に身を置かれながら、ひたすら、田舎の文字も読めぬ人、訴えるにすべのない境遇の、石ころか瓦のかけらのような扱いを受けている人々に身を同じくして、人々の悲しみを知って共に生きる道を生き通し、この真実の道を私どもに開き、私どもの光、いのちとなって下さいました。

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 飽食の中に明け暮れる私の一日一日。その同じ一日一日にアフリカでは飢えと病で何万人の子供が死んでゆく。たった1度のチェルノブイリ原発事故で、先祖代々トナカイを食べ売って生きてきたスカンジナビア北辺の遊牧民の生活が、根こそぎ破壊されました。身近かな日本にも長いしいたげの中に苦しんでいる人、激動の中で押しつぶされそうになって苦しんでいる方々があるのに、そのことにほとんど気づかずに一日一日を生きている私。

  私は、そしてわが祖国日本は、いま、人々と共に真の和らぎを生み出す道に立っているのだろうか。それともまた、世界人類の恐怖の種となるような道に立っているのだろうか。

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 まことにわが身の愚かさは無底であります。この無慚無愧の身に賜る無根の信に貫かれて、よろめきながら戸惑いながら、相共に如来の御用に召されて行きたいと念じてやみません。

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 

     (専光寺住職 出雲路暢良)