藤谷純子

パラリンピックを観て       藤谷純子

 十三日間にわたるパラリンピックが幕を閉じた。これまでのパラリンピックも放映されていたのだろうが、私は今回初めて観せていただいた。やはり日本で開催されたからだと思う。テレビで感想を聞かれた人が「パラリンピックは今まで正視できなかったのだが、この度は本当に感動しました」と言っていたように、私も痛々しさや受け入れがたい感じがして観ようとは思わずにきたのですが、コロナ大感染のさなかに開かれるオリンピックそしてパラリンピックに関心がありました。開催への賛否論争がありましたが、コロナへの不安に覆われた日常に、スポーツが贈ってくれる感動が生きる励ましや光になってくれるのでないかと思って、私は賛成でした。そして初めてパラリンピックを観戦し、無自覚なままにそれを生きている怖れや偏見や差別心などが微塵に砕かれていくような感動を覚えました。スポーツってすごいんだとも思いました。いのちへの新しい開眼とも言えるような出来事でした。
出雲路先生が「世界に贈られ、世界からいのちを育まれて、いのちの花一輪咲かせてもらっているよ」とおっしゃっていたことが、私達自身が今現に生きている事実なのだということがよく頷けるのでした。一人ひとりの選手の失った機能を補うために、医療関係の人々、その機器を製作する人々、そしてスポーツ界の指導者やチームメイト、悲喜を共に生きて支えてきた家族や友人、こうした世界全体からの応援を得て、今日を迎えていることが私達にまで伝わってきました。もちろんアスリート自身の、挫折を繰り返しながらの孤独な戦いは想像を絶するものなのにちがいない。それを、「もう一つの新しい人生を貰った」と言った方がおられました。
 この人世において与えられるものは、自分が求めたものではない。しかし与えられたものを受容するところに開けてくるのは、広大な他力の世界といえるでしょう。広大な他力の世界に自分を見いだしたとき、今まで求めていたものがどんなに一人よがりの満足であったか、その願いの小ささが思い知らされてくるのでしょう。今、障害と書かずに障がいと書いていることに気づきました。害という字を嫌ったのでしょう。障がいによって、かえっていのちの輝きが表現されていましたし、それぞれの苦悩を越えた明るさや優しさが、共に生きているこの世界を教えて下さいました。