出雲路暢良先生三十三回忌法話
先生に迎えられて(2)
藤谷純子
生きた僧伽で学んできなさい
そしてある時、先生が「ちょっと会って話がしたいから」と言ってくださって、その時は大谷専修学院の案内書を持って見えて、「ここに行って、一年間、自己とは何ぞやということを腰を据えてしっかり学んできなさい。今、大谷専修学院には、信国淳先生を中心とした僧伽が生きているから、是非そこに行って学んできなさい。ちょうど私の娘も行きますから」と言われて、「行きます」ということで、私もそこに送り込んでいただきました。
この真宗の学びの初めは、大学ではなくて、先生の官舎の方に私が呼ばれて、先生が清澤先生のご名号の傍に座って、「私はこの教えに命をいただいて生きているものです」と、きちんと正座なさっておっしゃいました。「あなたもこの教えを学んでみませんか」と。
そういうことから、先生のお誘いから始まった学びだったのです。先生のもとを離れて京都に、――そこにしか行くところが無かったもんですから、なに一つ期待するものがないというか、(金沢に)居ることもできないし、家に帰ることもできない。でも、「それを先生は私によく言ってくださったなあ」と、今になってつくづくですね。遠いところから金沢へ来ている、全然親戚もなければ友達もいない、そういうところにきて、一人でぼつぼつやっている、そういう人に向かって、――両親のことを考えたらとても言えないと思うんですよね。京都に。でも大学をやめたら戻ろうと思った時は戻れないから、「休学して行きなさい」ということで、休学して行く。両親の送ってくる生活費で一応賄えるし、専修学院は、入学金は安くしてくれてありましたので、バイトして貯めたお金とか、そういうので行くことができたのですね。
両親のところへ帰って、その話をしたら、泣かれて、なんでそんな方向に行ってしまうのか。「入った大学はなんで出らんか」。父にしたらそれしか理屈がないのですよね。「入ったら出んならん」という、本当に説得力はないんだけど。父は、大学へ自分は行きたいけど行けなかったですから、子供にだけはということで、頑張って出してくれたんですけどね。母はその時、一緒に電車で、近くの東京の方へ行く電車の所まで見送りに来て、初めて母が合掌して、別れました。泣き別れでしたね。賛成できない、賛成されないでも行くということで。
久遠劫來、初めて合掌しましたね
専修学院に来て、私の中に、先生が「お念仏申してみませんか」、そして合掌する。そういうことが今度は私の課題になって、「申せない、申せない」、手を合わせられない。それが苦しくて、でも抜け出したくても抜け出して行くところが無かった。それで、私の中に、「念仏申しなさい」「申されません」、手を合わすものはありません。そういうことが出雲路先生を通して課題としていただいて、初めて信國先生の前に、もう自分が倒れこんだというか、その時初めて自分が合掌していたんですね、気がついた時は。そしたら、信國先生が「久遠劫来、初めて合掌しましたね」という言葉をかけてくださった。それから、念仏申すという生活をスタートする、切らせていただきました。
私はお念仏に出会ったというか、「私も念仏申します」、そういう決意が湧き起こってきて、その喜びを出雲路先生に、ここ(専光寺)へ報告に来ました。「先生、私も念仏申せるようになりました」。それは私にとってちょっとのぼせているというか、そういう自分の経験に酔っているというか、そういう状態を先生はちゃんと見取って、「あなたの念仏と信國先生の念仏は違いますよ。念仏を支えているのは無根の信ですよ」と。そういう「無根の信」という言葉も初めて聞かせていただいて、やっぱり先生はそういうところをきちんと抑えて、私を本に帰すというか、大地に帰すというか、そういうことをきちんとしてくださいましたね。
皆さんにお渡ししたプリントの一番最初の文章は、「あんたの念仏は信國先生の念仏とは違うんだよ。信國先生は無根の信というところで生きているんだよ」、そういうことがはっきりしていないということを、私にしっかりと釘をさされた。その時に先生はこういうことをおっしゃりたかったんだろうなという先生の文章がありましたので、読ませていただきます。
名号をまで偶像にしてしまっている。自己肯定の道具にする。その肯定されなければおれない、どこかで肯定の場をもたなければやまない自己、これが最後のさまたげです。この我執の本来妄想でしかないことを照らし出して、完膚なきまでに粉砕される決定的な如来の智慧としての言葉が、先に述べた「本願の嘉号をもって己が善根とする」云々の言葉でしょう。
いつわりなき光に照らされつつ
先生が亡くなられたというのは、崇信学舎の浅田さんから連絡をいただいたと思うのですね。出雲路先生は亡くなって、「広隆寺の弥勒菩薩様のような、国宝第一号の弥勒菩薩様のようなお顔をしていたよ」という、そういう連絡を受けた時、私はその電話口でわあって泣いたんですね。そういう反応が自分から出るって、自分でも思いがけないことでしたけれど、わあっと泣いたら、浅田さんもびっくりして、先生とのこの世での別れというのがありました。
それから私は、お寺の住職になる方を紹介されて、今は大分の勝福寺というお寺の坊守という役割を持って、暮らしております。
この間、(出雲路)香さんが坊守ではなく住職に就任なさったという、そういうご挨拶が『崇信』(二〇二一年一二月号)に載せられていました。香さんは「賜わった座」ということが――。
先生が私たちに残された色紙に、
賜った座に座し
いつわりなき光に照らされつつ
すべてと共に実りゆく
いのちを
苦難の中 つらぬいて
成就されんことを
そういう色紙が残してくださってあるのですね。私、坊守になって、結婚して以来お寺に住むようになってからは、いつもその先生の言葉の下で、「賜った座に座し いつわりなき光に照らされつつ すべてと共に実りゆく いのちを 苦難の中 つらぬいて 成就されんことを」という先生の言葉を目にしながら――。
香さんはやはりお寺に生まれた方だから、「賜った座」ということがとても受け入れ難いというか、そういう感想をあの就任式のご挨拶の中でおっしゃっていて、「そうなんだろうな。お寺に生まれ人というのは、生まれたところをいただくというのは、本当に大変なことなんだろうな」と思いながら――。
私はお寺に生まれていませんので、なんとなくそういう「賜わった」という、それに近い感覚を案外容易く、「こういうご縁をいただいたんだな」ということで。先生方の導きでやっぱり「一生聞法」だなって、お寺だったら一生、聞法できるに違いない。もし、それに背を向けるような自分になったとしても、やっぱりお寺だったらそのことが知らされるに違いないと思って、それでお寺の方と結婚しようと思って、入りました。だから私は、「賜った座」というよりも、「いつわりなき光に照らされつつ」というこの先生の言葉がとてもありがたかったです。
「いつわりなき光に照らされる」ことで、また今日も「生きていこう」というか、自分自身の姿を見せていただいて、そして、「歩んで行こう」というですかね。「いつわりなき光」ということが私にとっては、その色紙の中では一番ありがたい言葉でした。(続く)
(二〇二二年三月二七日、専光寺にて)