たとい世界に満てらん火をも過ぎて仏の名(みな)を聞け
藤谷純子
ロシア軍によるウクライナへの軍事侵攻から百日余が過ぎた。突然の爆撃音と黒煙が上がり破壊されていく町や村。逃げ惑う人々の泣き叫ぶ声や他国へ避難する人々の行列。地下室に何ヶ月も潜んでいる大勢の人々や子供達。ゼレンスキー大統領の求めに応じて、欧米からは精巧な破壊力を持つ武器が次々と送られている。平和友好の裏側では軍備力の増強が進められている世界の現実に、今、自分の平和ボケを思い知らされている。
壊滅されるウクライナの光景から、かつて平山郁夫氏のシルクロード展で求めた一枚の絵はがきを思い出した。氏は十五歳の時広島の学徒動員先で被爆し、助けを請う人々に掌を合わせながら必死で逃げた体験を、「私は見えないふりをして、聞こえないふりをして、ひたすら歩き続けているのです。朝からもう何百人の、何千人の人をこうして見捨ててきたことでしょう」と回想している。自身も原爆症で次第に体が弱っていき、その救いと平安を求めて辿り着いたのが玄奘三蔵を描いた「仏教伝来」だといわれている。「広島生変図」はそれから二〇年後の一九七九年作。その絵は、原爆投下で黒く焼け焦げた街の残骸を下方に描き、あとは轟々と燃え盛る真っ赤な火炎の渦、その猛火の中に両眼を見開いて立つ不動尊が描かれている。恐ろしい人間業の炎に自らも焼かれつつ、逃げもせず立ち続ける不動尊。この業火は、戦争を生み出す貪りや瞋りや愚かさを、正義感や愛国心や民族愛で包み隠している人間の罪業であるだろう。それを憤怒し憐れみ悲しみつつ立ち尽くしている不動尊は何をあらわしているのだろうか。「広島生変図」と名づけられたように、焼土と化した広島そして日本の再生を業火の彼方から見つめている姿ではないのか。
不動尊が見つめ念ぜられているものは、最も悲惨な罪深い戦争をくぐって生み出された「日本国憲法」に行き着くのではないかと思う。その平和憲法の「前文」や「九条」を読む時、「愚かな戦争はもうこりごりだ。地獄(殺し合い)・餓鬼(足るを知らず、他人のものを略奪する)・畜生(他に支配され、常に怖れを抱いている)という三悪道の苦しみである戦争を繰り返すなかれ」という戦禍を生きた人々の真実の叫び・本願にまっすぐに答えている世界平和憲法だと思う。
しかし今日本は、戦争を否定しながらも数多くの米軍基地を許容し、アメリカの核の傘の下に身を隠して、抑止力としての軍備を正当化している。世界の平和に貢献できる現憲法を改革しようとすることは、恥ずかしいことだと思う。