宗教って何ですか?(一) 藤谷純子
七月六日朝の第一報が、オウム真理教の教祖松本智津夫の死刑執行のニュースだった。続いて複数人の死刑が執行されたとあり、やがて井上嘉浩さんはじめ六人の教団幹部の名前が報ぜられた。そして午後には、上川法務大臣の会見があった。「なぜこの七人なのか」という質問には答えを示さなかった。公僕として私情私見を出さずに、粛々と大臣としての責務を果たすことが国民から求められていることと考えているのだろうか。それにしても大臣の口紅の色が際立って見えた。どうして女性がこういう任務を受けいれるのか?女性は、胎児を宿し、産み、乳をやり、慈しみ育むという母親の営みを業としてきた歴史を身に受けているのに、淡々と動揺もせずに死刑執行の会見に臨めるのであろうか。家族の会代表の永岡氏は、酸素吸入をつけながらテレビに出られて「犯罪を犯した一人ひとりに会ってみると、本当に好青年だった。そういう若者がどうしてオウム信者になってしまったのか、それを明らかにしないまま死刑執行に及んでしまったこと、申し訳ありませんでした」とお詫びしておられた。被害者の方々や社会全体へばかりでなく、死刑になった人々にも向けられた言葉のように感じられた。
そして二十日後の二十六日、さらに六人の教団幹部の死刑が執行された。その後の上川法相の会見では「死刑は人の生命を絶つ重大な刑罰で、法務大臣として裁判所の判断を尊重し、慎重かつ厳正に対処すべきもの。鏡を磨いて、磨いて、磨ききる心構えで、慎重の上に慎重を重ねて執行を命令した」と発表している。国政を国民から託された方々が、もっと中身の感じられる真情を吐露なさることが、国民に響き、国を動かし正していくのではないだろうか、といつも思ってしまう。
「国土とは、人を摂するところを国という。身を安んずるところを土という」と教えていただいたが、日本という国は、罪を犯した人に罪を裁き断罪するだけで、罪を償わせ更生することをゆるさない国、浄土ならぬ穢国なんだなと思った。死刑は一瞬で終わってしまうが、罪を償う生活の方が苦しいし、人間の抱える闇を明らかにして被害者の無念に答えていく道ではないかと思う。また罰ということについては、「なぜ私はこんなに苦しいのか」と信国先生の前に身を投げ出したときに、「あなたは人を侮蔑(ぶべつ)し、自分を侮蔑し、世界を侮蔑してきた罰を、今受けてるんですよ」と指摘されたことがありました。その時その言葉に、人を信じ、世界を信じて愛し続け、呼び続け、待ち続けるいのちの魂を感じさせられたのでした。
あの当時、「寺は風景である」というオウム信者の言葉が、寺に住んでいる私達の間でもよく話題になった。寺の建物は立派で目立つものであるが、今を生き悩む者への何の呼びかけも感じられないということなのだろう。私は、法衣を着けて寺に出入りしている自身のいる風景を想わずにおれない。風景として定着するまでの長い歩みがあるわけなのだが、風景からそれを感ずることはなかなか難しいことなのだ。そして宗教心によって生きることを明らかにしてくださった教えの言葉と人に遇うことの希有(けう)であることが思われる。
善知識にあうことも
おしうることもまたかたし
よくきくこともかたければ
信ずることもなおかたし